安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

後生に驚きが立つと因果の道理についての質問に答える(メールでの質問)

メールで質問を頂きました。有り難うございました。

所属する団体で、後生に驚きがたたず、善に励もうとしないのは、因果の道理が分かっていないから、ということを言われることがあります。
因果の道理が分かる、とはどのようなことなのでしょうか?

回答をいたします。
確かに上記のようなことを言われると
「因果の道理が分かると、善に励もうとし、後生に驚きが立つ」ということを言っているように聞こえます。
「因果の道理が分かると、善に励もうとする」までは、廃悪修善の心が起きるということでおかしな事ではないように思いますが、後生に驚きが立つと続くと意味が通らなくなります。

「因果の道理が分かる=廃悪修善の気持ちが強くなる」とするならば、廃悪修善の心が強くなると、後生に驚きが立つのでしょうか?

これでは少し意味が分からなくなります。

そこで、どういう意味で言っているのかを推測してみますと
「因果の道理が分かる」→「廃悪修善の心が起きる」→「善をすると自分の姿が知らされる」→「地獄一定の姿が知らされる」→「だから後生は一大事と驚きが立つ」ということで言っているのだと思われます。

仮にそうだとしても、「後生に驚きが立つ」のが仏法を聞く目的ではありません。ただ今阿弥陀仏に救われ、浄土往生することが目的なのです。

呼吸の頃すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すことなかれ。(教行信証)

呼吸をするその間に今生が無くなり次の生がある。一度この肉体が死んだら万劫にもまた人間に生まれることはない。生きている今救われることがなければ、阿弥陀仏でも助けることは出来ない。願わくば深く無常を念じて、決して後悔をしないよう、ただ今弥陀に救われて下さいと言われています。
このお言葉で言えば「この時悟る」ことが大事なのです。しかも、それは生きている間のことですから、「深く無常を念じて」ともいわれ、「後悔を貽すことなかれ」と重ねて言われているのです。

後生に驚きが立ってから、はじめて阿弥陀仏に心を向けるということをしていれば、時間はいくらあっても足りないのではないでしょうか?
後生に驚きが立つというのが、「地獄行きが知らされる」とか「死にたくない」というのであれば、それは阿弥陀仏に救われても「死にたくない」という心は変わりません。

いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと心細くおぼゆることも、煩悩の所為なり。(歎異抄9章)

死にたくないというのは、私たちが煩悩具足の凡夫である以上は、阿弥陀仏に救われる前も後も、変わらない心です。もっといえば、「いそぎ浄土へ参りたい」という心もない、「地獄と聞いても驚かない」のが私たちですから、驚かない者を驚かせようとしても、それは方向が違っています。

ただ今弥陀に救われようと思う人に、「この時悟らざれば、仏、衆生を如何がしたまわん」という驚きが立つので、これを「後生に驚きが立つ」というのです。
「善をしたから」ではありません。

もし、「善をする」→「地獄一定の姿が知らされる」→・・・→「救われる」
という因果関係が存在するとしたならば諸行往生になってしまいます。

質問についての回答をまとめます。

後生に驚きがたたず、善に励もうとしないのは、因果の道理が分かっていないから、ということを言われることがあります。
因果の道理が分かる、とはどのようなことなのでしょうか?

  • 「因果の道理が分かる」とは、悪いことをやめよう、善いことをしようとう心になることをいいます。
  • 「因果の道理がわかってないから」後生に驚きが立たないというのは間違い
  • 「後生に驚きが立つ」のが目的ではありません。
  • ただ今弥陀に救われようという人に「この時悟らざれば」と驚く心を、「後生に驚く」というのであって、「地獄へ行きたくない」とか「地獄しか行き場のない自分」に驚くこと以外にないと思うのは間違い。