安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

不得外現賢善精進之相内懐虚仮について、親鸞聖人と善導大師の違い(maryさん、Kさんのコメント)

maryさんと、Kさんから前回のエントリー(「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」としなければ助からない?(メールでの質問) - 安心問答(浄土真宗の信心について)について質問を頂きました。有り難うございました。

ふと疑問に思ったのですが、善導大師はなぜ「三業を賢善精進にしなさい。」教えられたのでしょうか?
(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090405/1238888058#c1238945341

善導大師が「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」
と言われたのはどのような意味なのでしょうか?
このお言葉は阿弥陀仏の19願の御心を言われたものと聞いております。
阿弥陀仏に救われるためにと勧められたことではないのでしょうか?
それとも、阿弥陀仏に救ってもらう必要はないと思っているのならばこのようなことができなければならないというような意味なのでしょうか?
(Kさんのコメント)

結論の前に、親鸞聖人はこの御文については、「外に賢善精進之相を現じて、内に虚仮をいだけばなり」と解釈されているのであって、善導大師がこう教えられた=親鸞聖人の教えそのものではありません。

「不得外現賢善精進之相」というは、あらはに、賢き相、善人のいう形をふるまわざれ、精進なる相を示すしめすことなかれとなり。(唯信鈔文意)

上記の唯信鈔文意でも、教行信証でも、親鸞聖人はこのように読まれているのは一貫しています。

親鸞聖人の立場はあくまでも、阿弥陀仏の18願を中心として、弥陀の18願によって救われると言うことを教えていかれました。親鸞聖人の著作も、阿弥陀仏の18願と18願成就文を中心に解説されたものです。従って、19願の御心をお釈迦様が解説された観無量寿経について、善導大師が観無量寿経に立って解説されたものとは、意味が異なります。

「親鸞聖人の教え」として、善導大師の教えを同じ場で話をすると混乱するのは当然のことと思います。理由は上記にあるように、親鸞聖人の著作には善導大師の書かれたように読まれたものは見あたらないからです。

前置きが長くなりましたが、質問にお答えします。
善導大師のお言葉「不得外現 賢善精進之相 内懐虚仮」についてのお尋ねです。
これは、観無量寿経の解説をされた観無量寿経疏に書かれたものです。「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と読みますが、これは、「外」(体や口の行い)と、内(心で思うこと)の不一致を戒められたものです。
「外ばかり賢善精進の姿を現して、内が虚仮ではあってはならないですよ」といわれているのです。
なぜそういわれたのですか?という問いには、観無量寿経の「至誠心」について解説をされたので、このように言われたということです。
阿弥陀仏の19願を、お釈迦様が開説されたのが観無量寿経です。その観無量寿経を解説された善導大師のお聖教に書かれているものですから、このお言葉は阿弥陀仏の19願の御心を解説されたものです。

Kさんの最後のお尋ねについて

阿弥陀仏に救われるためにと勧められたことではないのでしょうか?
それとも、阿弥陀仏に救ってもらう必要はないと思っているのならばこのようなことができなければならないというような意味なのでしょうか?(Kさんのコメント)

「阿弥陀仏に救われる為に」善をしなさいとは親鸞聖人は教えられておりません。
「阿弥陀仏に救われる為に善をしなさい」と「善をしなさい」は意味が違うのです。
「善をするな」という仏教はありませんから、仏教では「善をしなさい」と教えられます。しかしそれはあくまで「仏教では」の話です。
浄土真宗では、阿弥陀仏にただ今救われるには」善をしなさいとは言われていません。信心決定せよといわれているのです。真実信心を獲得するかしないかは、善が出来たかできなかったかではありません、善をしたか、しないかでもありません、自力の心を振り捨てたかどうかなのです。
「阿弥陀仏に救われなさい」と「阿弥陀仏に救われる為に善をしなさい」も意味が異なります。

聖人一流の御勧化の趣は信心を以て本とせられ候(御文章5帖目10通・聖人一流の章)

「阿弥陀仏に救われるには」信心を以て本ですから、信心為本、信心一つです。
「信心一つ」を勧められたのが親鸞聖人です。

多少わかりにくいところがあるとおもいますので、またご不明な点はお尋ね下さい。