安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

本願を遠ざける心ととは(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

5日の内容で、『「まず三業を善くして」と思う心は、阿弥陀仏の救いを遠ざける心』と書かれています。
「まず三業をよくして」と思う心は、わが身の無常を忘れているのん気な心だとは思うのですが、なぜ「三業を善くして助かろう」と思う心が、「阿弥陀仏の救いを遠ざける心」になるのか、ぼんやりしていてはっきりしません。救いを求めてする行為が、なぜ遠ざけることになるのでしょうか?自分が遠ざけているということでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090406/1238977223#c1239017711

2009-04-05のエントリー*1で書いた内容について質問を受けました。
回答いたします。
行為そのものが遠ざけているのではなくて、
「まず三業を善くして(=行為)」と思う心が遠ざけているのです。

まず三業を善くしてから、それから助かろうというのは、阿弥陀仏の現在ただ今の救い、一念の救いについて、「三業を善くする」というプロセスを挟むことで、一念を多念にし、平生の救いを、死んだらお助けにしているのです。

我が身が無常であると言うことから言えば、「そんなことを言っている間に無常がやってくることを忘れている」とも言えますが、あくまでも阿弥陀仏の本願について思う心なのです。ですから、阿弥陀仏の本願を勝手にただ今の救いから、「そのうちいつか」に自分で変えようとしている心なのです。

maryさんは、「三業を善くして助かろうと思う心」も、行為だということで質問をされていると思いますが、言葉で書くと長くなりますが「三業を善くして助かろうと思う心(行為)」を思わせる心が阿弥陀仏の救いを遠ざけているのです。
別の言い方で言いますと、三業を善くしないと助からないと思う心です。
これを、雑行雑修自力の心といいます。また本願を疑う心といいます。

我身の罪の深き事をば打措きて、ただかの阿弥陀仏を二心なく一向にたのみまいらせて、一念も疑う心なくば、必ず助けたまうべし。(御文章3帖目1通・摂取と光明)

蓮如上人は、自分自身がどんな罪悪を重ねてきたかと言うことはうちおいて、ただ阿弥陀仏に向かって雑行雑修自力の心を振り捨てて、一念も本願を疑う心がなければ、必ず助けて下されると言われています。
「我が身の罪の深き事をば打措きて」というのは、「罪が深いと助からない」と思う心であり、反対に「三業を善くしないと助からない」と思う心です。そういう心から、ただ今救う本願と聞いても、どうしても時間がかかるように思います。何か条件を満たさねばならないように思います。その心が、本願を疑う心ですから、ただ今の救いを疑います。ただ今の救いを疑うと言うことは、ただ今の救いを遠ざけると言うことになります。

自分で遠ざけていれば、それは阿弥陀仏の救いの妨げになりますから、振り捨てよと御文章にたびたび書かれているのです。