安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「一向専念無量寿仏とは」「今、息の切れ際の臨終の人でも一念で助かる教えですについて思うこと」(前田さんのコメントより)

前田 2014/08/18 22:53
1。一向専念阿弥陀仏を解説していただけますか。
2。「今、息の切れ際の臨終の人でも一念で助かる教えです」という表現を聞くことがありますが、この言い方について、山も山さんの見解をお聞かせくださいませ。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140818/1408355401#c1408370029

1.一向専念無量寿仏とは

一向専念とは、「専ら阿弥陀仏の名号を称念すること(浄土真宗辞典」です。ですから、「一向専念無量寿仏とは、専ら南無阿弥陀仏と念仏すること」です。

そもそも、「一向専念無量寿仏」は大無量寿経にある言葉です。

菩提心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じ(大無量寿経 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版
(発菩提心 一向専念無量寿仏)

http://goo.gl/Q5zZJI

これについて、善導大師は阿弥陀仏を念ずることではなく、阿弥陀仏の名を称えることだと解説されました。
それについては、以下のご文にまとめて書かれています。

おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」(散善義 五〇〇)と判ずるは、和尚(善導)の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑに源空聖人このむねををしへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。 一流の宗義さらにわたくしなし。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。(持名鈔 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

http://goo.gl/brxT7V

善導大師は「一向専念無量寿仏」は「一向専称弥陀仏名 (一向にもっぱら弥陀仏の名を称す。念仏すること)」と解説されました。それを法然聖人が教えられ、親鸞聖人もその教えを伝えていかれたのだと書かれています。


「念」とあるから「念ずること」ではないのか?と疑問に思われる方もあると思いますが、善導大師、法然聖人、親鸞聖人は「念仏」については「称名念仏」と定義されています。本願文の「乃至十念」の「十念」も「十回の念仏」とされています。


したがいまして、親鸞聖人の教えで「一向専念無量寿仏」とはただ専ら念仏せよという意味になります。それは、念仏が阿弥陀仏が選び取られた私を救うための行だからです。


次の質問について書きます。

2.「今、息の切れ際の臨終の人でも一念で助かる教えです」という表現について

この表現は、日本語として不十分です。もちろん、これは一念と言う言葉の定義によります。
私が過去いた団体で、上記の表現での「一念」は「極めて短い時間」の意味で使っていました。
しかし、そうなると日本語として意味が分からない文章になります。


例として上記の文章を書き換えるとこうなります。
今、息の切れ際の臨終の人でも極めて短い時間で助かる教えです
こう聞いたら、「どうして助かるのか?」「何によって助かるのか?」と疑問に思います。


さらに省略して書くと「貴方が極めて短い時間で助かる教えです」と言っているようなものです。「何によって助かる」の説明がないので、意味がない文章となってしまいます。


ただ、この一念が行の一念のなかの「行相の一念」の場合は、意味も通ります。行相の一念とは「ただ念仏して他の行を並べ修さないことをいう(浄土真宗辞典」の意味です。つまり、臨終の人も念仏一つで救われる、念仏にはそういう働きがあり、阿弥陀仏が選び取られた行なのだという意味なら通じます。


とはいえ、私が元いた団体は前者の意味で言っていたので「臨終でも助かるんだ」とだけいって現在助からないことについて疑問を起こさせないための詭弁に過ぎないと思います。また、どうしたら臨終までに間に合うのか?と疑問を起こした人にお布施や活動を推進していました。それは全くの間違いです。本願力一つの救いですから臨終でも間に合うというのが本当です。


さらに言い換えれば、「いざとなったら臨終でも助かるのだから(根拠はなし)、今助かってなくてもいいのだ」と開き直り、現在救われる教えに遇いながら、救われていないことを合理化しようとしているとしか思えません。


そもそも、ただ今私が救われる教えなのですから、ただ今臨終でない人に向かっていうことは全く意味のないことだと思います。