メールで質問を頂きました。
「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」
について思うことですが、親鸞聖人は、救われて初めて、外側だけいい格好をするなといわれただけで、基本は、善導大師のお言葉どおりにして、初めて本当の自分の心が知らされるということではないでしょうか。
善導大師のお言葉を、親鸞聖人が読み替えられたことについてのご質問です。
不得外現 賢善精進之相 内懐虚仮
このお言葉は、善導大師が
外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ。
と言われたものです。意味は、外というのは体や口の事です。体でやること、口で言うことを賢善精進にして、心の中(内)も、うそ偽りを持ってはなりませんよと仰ったお言葉です。
それを親鸞聖人は
外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり。
と読み替えられました。意味は、口や体に賢善精進の姿を現すな、心はうそ偽りなのだからと、一見意味が逆になったように読み替えられています。
そこでお尋ねのことですが、救われたら親鸞聖人のように言っても良いが、阿弥陀仏にまだ救われる前は、親鸞聖人も善導大師が言われたように、心も口も体も賢善精進にして、はじめて本当の自分の心が知らされて救われたのではないでしょうかということです。
結論から言いますと、この親鸞聖人の読み替えは、「三業(心と口と体の行い)の善悪で往生が決まるのではないのだから、三業を善くして助かろうなどと思うなよ」という意味です。「善導大師の言われるように三業を賢善精進にしないと阿弥陀仏に救われませんよ」と言われたものではありません。
誤解の無いように言いますと、「善をしなくてよい」とか「悪にほこればよい」と言われたものではありません。一般の生活態度のことではなく、現在ただ今阿弥陀仏に救われるかどうかということについて、「三業を善くしたら助かるだろう」「三業を善くして助かろうと思わせる心」は間違いですよといっているのです。
阿弥陀仏の救いの前後で、私たちの三業が変わるのではありません。ここでいう三業というのは、別の言葉で言うと煩悩のことです。親鸞聖人は正信偈にこのように言われています。
能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃(正信偈)
「よく一念喜愛の心をおこして 煩悩を断ぜずして涅槃を得」
一念で阿弥陀仏に救われた人は、煩悩を断ちきらないまま、煩悩はそのままなにも変わらないまま、弥陀の浄土往生間違いない身になるのだと言われています。
三業(煩悩)を変えて助かるのならば、それを「往生浄土のために」変化させる努力は大変大事だと思います。しかし、阿弥陀仏の救いを妨げているのは三業の善悪ではなく、三業の善悪を往生と関係づける心である自力の心です。
善導大師のようにされたといわれる親鸞聖人の姿は、比叡山での修行を想像されているかのようのですが、もしそうなら、山に入り20年間修行をした人でなければ、また修行が出来るような人でなければ阿弥陀仏に救われないということになります。
「まず三業を善くして」と思う心は、阿弥陀仏の救いを遠ざける心であり、そのように理解しておられるのでしたら、それは間違いです。救われるのは現在ただ今のことですから、蓮如上人は、「まず」の後にはこう書かれています。
まず、もろもろの雑行をさしおきて、一向に弥陀如来をたのみたてまつりて(御文章1帖目13通・三経安心)
まずもろもろの雑行、雑修、自力の心を捨てて、阿弥陀仏に一向専念の身になりなさいといわれています。
まず雑行を捨てて、まず自力を捨てて、まず弥陀に救われなさい、まず信心決定の身になりなさいといわれているのです。無常の身ですから「まず」と言っている間に、寿命を迎えるかもしれないのです。
火事で家が燃えているときに、一刻も早く脱出しなければならないとなったら、まず化粧をして、まず服を着替えて、まず顔を洗ってからなどとは言ってはおれないでしょう。まず火のついた家から出ることこそ急がねばならないことなのです。
ただ今弥陀に救われる事が大事なことなのです。