安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」まとめ(みなさんのコメントから)

Kさんからの質問で議論されている善導大師の不得外現賢善精進之相内懐虚仮について、前回のエントリーで、くりいむれもんさん、あほうどりさんよりコメントを頂き有り難うございました。

非常に勉強になるコメントも多かったので、エントリーとしてまとめて掲載します。

  1. くりいむれもんさんのコメント
  2. あほうどりさんのコメント1
  3. あほうどりさんのコメント2
  4. あほうどりさんの補足コメント

そこで、Kさんがまとめて下さいました

少し整理させてください。
・善導大師も親鸞聖人も共に、阿弥陀仏から真実の心=至誠心=真実の信心を頂きなさいということ一つを教えられた。(18願意)
・しかし善導大師は時代背景等からそのまま説いても分からないということで、
「まず、まことのこころ=至誠心、を起しなさい」と教えられ、人によって
「まことの心を、自分で起す(起せると思っている)」とも
「自分にはまことの心はないのだからまことの心をいただいて自分のものにする」
ともとれるような言い方をされている。(⇒19願意?ここはまだよくわかりません)

こんなところでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090408/1239152820#c1239202330

不得外現賢善精進之相内懐虚仮については、善導大師が書かれた文章です。
外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれと読みます。
内外不一致を戒められたお言葉ですが、わかりやすく言いますとあほうどりさんの言われるような意味になります。

外に賢善精進の相を現じていても、内が虚仮ではいけませんよ、不真実であってはいけませんよ、内外ともに真実になるようにしなさいよ。
ということですね。
(さっきの※とは微妙に違いますよ)
ところが私たちには真実の心はありませんから、この文は、阿弥陀仏から真実の心=至誠心=真実の信心を頂きなさいという意になります。(あほうどりさんのコメント1)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090408/1239152820#c1239190576

単に「賢善精進の相を現じなさい」そして「内も虚仮を懐かないようにしなさい」という意味ではないということを言いたかったのです。(あほうどりさんコメント補足)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090408/1239152820#c1239232695

真実信心一つを勧められたものであって、単純に善いことをせよといわれたものではありません。

大事なのはやはり心であり、真実信心といっても体の行いのことではありません。心が虚仮であってはなりませんよ、真実信心を早く獲得しなさいと言われているのです。

Kさんの言われるように、親鸞聖人も、善導大師も、真実信心を頂きなさいと教えられたのはその通りです。

一見すると逆のように思う人がある部分は、コメントで書かれているとおりで顕彰隠密といいますが、観無量寿経には簡単に表面的にわかりやすいものと、かすかにあらわれた本当の意味というものが二つあるからです。時代背景と前回書きましたのは、原因の一つで、教義からいえば、穏顕の意味があるという意味からそのように説かれました。(詳しいことはコメント文をご覧下さい)

またそのように思われる方の多くは、「善をすれば助かる」「善をすれば信仰が進む」「善をしたら早く救われる」と思っておられるようです。「善をしなくても助かるのは間違い」「善をしない方がよいというのは間違い」と思っておられるようです。
心で思うこと、口で言うこと、体で思うことを含めて、善をしたから早く助かるというのならば、阿弥陀仏は本願を建てられることはありませんでした。

「善をしたら阿弥陀仏に早く救われるというのは間違い」と聞くと、「善をしなかったら阿弥陀仏に早く救われる」ということになると思われる人があります。しかし、親鸞聖人は、「善をしたら早く阿弥陀仏に救われる」とも「善をしなかったら阿弥陀仏に早く救われる」とも教えられませんでした。
「善」の有無、「悪」の多少で、救われるのではありません。

おほよそ大信海を案ずれば、貴賎緇素を簡ばず、男女・老少をいわず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。(教行信証信巻)

真実信心は、身分や、老若男女、罪悪の多少、修行(善)の多少も関係ない、行でも善でも頓でも慚でも、尋常でも臨終でも、多念でも一念でもない、ただ不可称不可説不可思議の信心なのだといわれています。
真実信心は、善や悪とは無関係なものなのです。無関係なことを関係あるようにいうのは間違いです。

あくまでも真実信心一つが、阿弥陀仏に救われる上で大事なことなのです。

追記 自力の至誠心について

くりいむれもんさんよりコメントを頂き追記します。
至誠心について、至誠心=他力の信心=真実信心という一面を書きましたが、表に現れた意味の方でどのようにいわれているのか。

一つには至誠心、これすなわち真実のこころなり。おほよそ仏道に入るには、まづまことのこころをおこすべし。(唯信鈔)

仏道をに入るもには、まずまことの心を起こしなさい。そうしなければなりませんよと、唯信鈔に書かれています。
そして、この観無量寿経に説かれる三心について(至誠心もその一つ)について、親鸞聖人はこのように教えられています。

『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心と知るべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」というなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆえにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆえに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆえに、すなはち生れずといふなり。(教行信証化土巻)

観無量寿経の三心は、定善散善の二つの人の心であるから、その定散二善から、大無量寿経の三信(真実信心)を得させるための方便の深心、至誠心なのである。真実信心を獲得しなければ、生まれることはできないといわれている。真実信心を獲得していないから弥陀の極楽浄土へは往生出来ない。雑行雑修を捨てない定善、散善の人は、他力の信心が無いから、多生曠劫という長い間かかっても他力の信心を得ない間は真実の報土往生はできないから、すなわち生まれず(即不得生)といわれています。

至誠心(まことのこころ)になりなさいと言っても、それは真実信心ではないから弥陀の浄土へ生まれることはできませんよ、早く他力の信心を獲なさいよと言われています。
まことの心の無いものは、まことの善が出来ませんから弥陀の浄土に往生することはできません。いわゆる雑毒雑修の善、虚仮の行では弥陀の浄土に生まれることは出来ませんから、真実信心一つを勧められたのが親鸞聖人です。