安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

ただ今救われたらと、ただ今救われなさいの違い(maryさんのコメントより)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「今救われたらそれでよい」ではなくて、「今救われなさい」と教えておられます。
「信心決定あれかし」というおすすめ(ドイツ人さんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)

という部分について質問を頂きました。

「今救われたらそれでよい」と「今救われなさい」との違いが、よくわかりません。
「今救われたらそれでよい」イコール「今救われなければよくない、今救われなければいけない」となり、「今救われよう」という気持になると思うのですが・・?

どこが違うのか教えてください。
(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090324/1237849362#c1237983120

結論から言いますと、「たら」ではないということです。
文脈上、親鸞聖人や、蓮如上人はどう教えられたかということについて書いた文章です。
「たら」というのは、未来です。仮定の文章です。
私の文章理解からしますと
「今救われたらそれでよい」→「今は救われていないけれど、未来阿弥陀仏に救われる事があったら、それでよい」というように、言葉の印象として持ちました。「今すくわれたら」と「たら」と言っている間に、「ただ今」の救いでは無くなってしまいます。

呼吸の頃すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。(教行信証)

呼吸の間に、後生が収まっている。もし、後生となったら万劫にも人間に生まれることはないから、現在ただ今救われなければ、仏様でも助けることはできないのだと親鸞聖人は言われています。
「この時」というのは、現在ただ今のことですから、ただ今救われなさいと言われています。

あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり(御文章4帖目15通・大阪建立)

蓮如上人は、あわれあわれ存命の中に信心決定の身に救われれてもらいたいと、一日中思っていると言われています。この「存命の中」というのは、「今ではない未来」ではなく、「ただ今」のことなのです。
そういうことで「ただ今救われたら」ではなく、「ただ今救われて下さい」と書きました。