安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

どう思えば・・?と思った心が自力です。思えないのは自力ではありません(花さんのコメント)

花さんよりコメントを頂きました。ありがとうございました。

どうすればたすかるか?答えは自力を捨てればたすかるということはわかりました。自力とは、今阿弥陀仏は助けて下さると手を下げておられると聞いても、今ですか?ただで助けて下さるのですか?そのままとはどういうそのままですか?どう阿弥陀仏を信じればよいのですか・?どううちまかせればよいのだろう・?どう思えば・・・・・?・という心がでてきます。これが自力ですか・?・・・・・・?(花さんのコメント1)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090524/1243149577#c1243218178

一心に弥陀をどうたのめばようのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090512/1242102913#c1243218742

自力とはどんな心かということですが、人によって口にすれば表現はいろいろとかわりますが、花さんが書かれた心が、自力の心なのです。
親鸞聖人が

愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す。(教行信証)

と言われているように、雑行を棄て、自力をふりすてなければ阿弥陀仏に救われる事はありません。そこで、自力とは何かと言うことが問題になりますが、多くの人は、「どこかにある自力」を探そうとします。
人間の目は、自分から離れたものしか見ることができませんが、その目を、どこかではなく、自分の心に向けてみないと、自力の心はわかりません。
なぜなら、自分の心が、自力の心だからです。
近すぎて分からないものをみるときには、鏡を使って私たちは自分の姿を見ますが、自力の心を見るための法の鏡が、阿弥陀仏の本願であり、南無阿弥陀仏なのです。
ただ今救うという本願の鏡に、自分の心を投げ出せば、「今ですか?」と写るでしょう。
「ただで救う」「そのまま救う本願」という鏡に自分の心を対面させれば、「ただで助けて下さるのですか?」「そのままとはどういうそのままですか?」「どう阿弥陀仏を信じればよいのですか・?」「どううちまかせればよいのだろう・?」「どう思えば・・・・・?」という心が写ります。

鏡には、そのままの自分の姿しかうつりません。他力の本願に、我が身を映せば、自力しかでてこないのです。自力しか持ち合わせていないものを、鏡に映したら、映った姿が他力になるということでは絶対ありません。

その出てくる自力の心を捨てねば、他力にはなりませんので、それを捨てて、阿弥陀仏をたのめと蓮如上人は仰っています。

それはどういうことなのかということについては、御文章にたびたび書かれていますので、御文章を読まれればよいのですが、今回はその中から一つ紹介をいたします。花さんもよく読まれたこともある御文章の中の「本師本仏(2帖目8通)」に書かれています。

何とように心をも持ちて、何とようにその信心とやらんを心得べきや。懇に之を聞かんと思うなり。
○答えていわく、「それ、当流親鸞聖人の教えたまえるところの他力信心の趣というは、何のようもなく、我が身は浅ましき罪ふかき身ぞと思いて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行を捨てて専修専念なれば、必ず遍照の光明の中に摂め取られまいらするなり。是れまことに、我等が往生の決定するすがたなり。(御文章2帖目8通・本師本仏)

どういうように心をもって、どうやってその真実信心というものは獲得できるのでしょうか?詳しく教えて下さいという問いに対して、蓮如上人は、「親鸞聖人の教えられる他力信心というのは、何のようもなく、自分自身は浅ましいものと思って、阿弥陀仏を一心一向にたのみ、諸々の雑行をすてれば、必ず阿弥陀仏に救われるのだ」と言われています。
いろいろな方面でいわれているのですが、阿弥陀仏を一心にたのめ、雑行をすてよ、それも何のようもなくであるといわれています。

いろいろと出てくるその心を捨てて、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。捨てよとは、思わないということとは違います。思わないというのは、「思わないようにしよう」と思っているのですから、自力の心なのです。
それ以前に、「そんな風に思ったことがない」のは自力もないから、自力がすたった心でもありませんから他力でもありません。
どう思えばの、「どう」を捨てなさいというのが、蓮如上人の「何のようもなく」なのです。