安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の救いに向かって行動する前に大事な事(みかみさんのコメント)

みかみさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏の救いに向かうとは、実際、どのような行動をおこせばいいのでしょうか。
「聴聞、勤行、念仏を称える」といった行為でしょうか?
それとも、阿弥陀仏の本願を建てられれている有難い御心、お徳、ご苦労を聞いていけばいいのでしょうか。(みかみさんのコメント1)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090823/1251038592#c1251200605

回答します。
具体的には「聴聞(実際に話を聞く、またお聖教を拝読する)、勤行、念仏を称える」ということになります。

ひろみさんのコメントにもありましたが、具体的な行為の前には、必ずどういう心でするかということが大事です。

心が大事

「ただ今阿弥陀仏に救われる」という前提は、思ったよりも私の心にはかからないものです。
浄土真宗の教えは「平生業成」と知っていても、「雑行など40年、50年聞いても分かるものではない」という話について疑問が起きない人が多いのはその証拠です。
名号を受け取る一つですから、「具体的な行動を起こして、その行動の結果として救われる」のではありません。

ただ今救うということは、何度も聞いてはいても、本当に「ただ今救われる」と思っているかどうかが大事です。このように質問をされる方は、今までも仏法を聞いて来られたのだと思います。

真実信心を求め、阿弥陀仏の救いを真面目に求めておられる方ならば、「何か具体的な行動」をする前、この文章を読んでいるただ今救われることがあるということを、知っていただきたいと思います。

人はみな、耳慣れ雀

一、前々住上人(蓮如)、「おどろかすかひこそなけれ村雀 耳なれぬればなるこにぞのる」、この歌を御引きありて折々仰せられ候ふ。ただ人はみな耳なれ雀なりと仰せられしと(蓮如上人御一代記聞書174)

「農作物を荒らす雀を驚かそうと鳴子をつけてみたけれど、慣れてしまうと鳴子の上に乗ってしまうのだから驚かす甲斐もない」という内容の歌を引用されて蓮如上人はお話をされた。「人はみな、耳なれ雀である」と。

驚かすというのは、無常や、罪悪の話ばかりではありません。
阿弥陀仏の救いに関しても同じ事が言えます。「ただ今救われる」「生きている間に救われる」と初めて聞いたときは、誰でも驚くものです。その驚きはとても新鮮なものだと思います。

しかし、そのうち耳慣れてしまい「ただ今救われるということは分かった、後はその方法を考えなければならない」とか「救われる事は分かったから、あとはどう救われるかだ」と、「ただ今救われる」ことよりも「方法論」にばかり心がかかってしまうようになります。

現在ただ今救われるというのが前提です。
また、阿弥陀仏のお徳、ご苦労を聞かせていただくというのは、聴聞のなかに含まれるので、何をするかという行動に関しては、最初に書いた通りです。
「聴聞、勤行、念仏」です。

こういうと「善をしなくてよいのか」という方もありますが、生活上のことで、善をするのは当然のことです。
あくまでも、「ただ今阿弥陀仏に救われるか救われないか」という事が問題になった人が、「何をしたらいいのでしょうか、じっとしていても心が落ち着きません」と質問された場合の回答です。

具体的な行動の後に救われるのではなく、ただ今救うのが阿弥陀仏です。ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。