安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

助からなかったらどうする?という心はどういう心か(カナダ人さんのコメントより)

カナダ人さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

1「後ろ髪を引かれるような思い」とか 2「私の心を引き留めて進ませない」というのは、どういう心でしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090325/1237971690

という質問に対して、コメントを二つ頂きました

1.ただ今救う本願に向かってただ今救われたいと飛び込もうとするとき、先が全く見えない(分からない)から、そこへ飛び込もうとしても怖れと不安の心で飛び込めなくなってしまう状態、の思いや感じのことです。
2.1で書きました通り、先が全く見えない(分からない)ところへ飛び込もうとするときの怖れや不安の心が気がかりになって、進めないということです。
(カナダ人さんのコメント1)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090325/1237971690#c

飛び込んで、ほんまに助けてくれはるんやろか?もしほんまに助けてくれはらへんかったらどないすんねん?絶対助けるいうても自分だけ願力届かなんだらどうすんねん?ただ今救う言われて賺されたらえらいこっちゃ。阿弥陀仏はほんまにいやはるんやろか?阿弥陀仏はほんまのほんまに助けてくれはるんやろか?ほんまに絶対助けてくれはるんやろな。
と、いざ飛び込もうとする私の心は、恐怖と不安のため本願から逃げたくなります。矢のようなご催促に遇うと追い詰められ逃げ場がなくなり苦しいです。本願に向かう苦しさから逃れるため思わず安楽椅子を作って腰を降ろして落ち着こうとしてしまいます。
(カナダ人さんのコメント2)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090325/1237971690#c

心を打ち出すと言うことを何度もして頂いて、非常によく分かるようになりました。自分の言葉で語ると言うことは本当に大事なことです。
「阿弥陀仏は本当に助けて下さるのか?」という疑いは、どこからくるのか?ということについて回答をいたします。
今回は、敢えてばっさり書きますと、助かる自分だと思うからそういう不安が起きるのです。

夫れ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。(御文章2帖目8通・本師本仏)

蓮如上人は、十悪五逆罪の罪人も、五障・三従の女人も、過去現在未来の大宇宙の諸仏が一度は助けようとされたけれども、助けることはどうにも出来ないと見捨ててしまわれたのが、私たち凡夫なのだと言われています。
助かる縁が少しでもあるものなら、三世の諸仏は決して見捨てたりしません。諸仏においては、過去にも現在にも未来にも助ける力がないということです。仏様が見捨てるのですから、凡夫の力なにか思ったから、こういうことをしたから、中には助かるように変化していくというようなものがらは、カナダ人さんにはないのです。

阿弥陀仏の本願48願の中の18願と、その18願成就文にはともに

唯除五逆誹謗正法

と誓われていることは、このことなのです。
五逆罪と謗法罪の者は唯除くといわれています。本願にも除かれている、助からないといわれているではありませんか。
それでも、そんなものを阿弥陀仏は助けて下されるのではないかと、自分の姿を良い者のように思うのが、「憍慢」といわれるものです。

邪見憍慢悪衆生
信楽受持甚以難
難中之難無過斯(正信偈)

親鸞聖人が言われているように、邪見憍慢の悪衆生は、阿弥陀仏に救われる事は大変難しい、これ以上難しいことはないと言われているのはそのことです。難しいという字が、2行の中に3回も出てきます。それもただ難しいではないのです。「甚だ以て難しい」とか「斯に過ぎたる難は無し」とまでいわれているのです。

飛び込んだら助けてくれるだろうと、飛び込むような殊勝な心になっ「たら」とか、助けてくれなかっ「たら」というのは、阿弥陀仏に対して取引を持ちかけ、苦情をいう心です。それは、客が店員にいう言葉でしょう。
「この商品、お金振り込んだらちゃんと届けてくれるでしょうね」とか「もし、この商品が動かなかったら、保証してくれるのでしょうね」という言葉は日常使われます。
この消費社会のなかでは、消費者は会社よりも強い立場になっています。消費者が商品を買わねば、企業は成り立たないからです。
しかし、阿弥陀仏はどうでしょうか。十方衆生を助けなくても、阿弥陀仏は何も困らないのです。それでも本願を建てられましから、超世の大願といわれるのです。

阿弥陀仏は「若不生者不取正覚」と本願を建てておられますが、それは阿弥陀仏のことです。だからといって私が、それに乗っかって「正覚までかけたのだから早く助けてくれるだろう」と阿弥陀仏の頭の上に立っているから「唯除五逆誹謗正法」の八文字が目に止まらないのです。

「どうせ助けてくれるだろう」と思う邪見憍慢の親玉は、すでに本願から除かれているのです。

回答は途中になりますが、ここまで読まれてカナダ人さんはどういう心がおきるでしょうか?
また打ち出して見て下さい。