安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「無常と罪悪にせめたてられたものでなければ、信心決定できない」のは本当?(メールでの質問)

メールで質問を頂きました。

「このように無常と罪悪にせめたてられたものでなければ、信心決定できない」と書かれています。(略)やはり無常と罪悪が深まった者でないと救われないのではないか、と思ってしまいます。

回答いたします。
「無常と罪悪にせめたてられたものでなければ」という条件は、信心決定出来ないという理由にはなりません。あくまでも、自力の心が無くなったかどうかが問題なのです。
勿論、無常や罪悪が全く問題にならないということではありません。
お尋ねの部分のように書くと、無常と罪悪が深めていかないと信心決定出来ないとしか読めないと思います。しかし、それでは「条件付け」ということになってしまいますので間違いになります。

誰でも彼でも、死ねばお助けと思っている人が多いならば、質問のような言い方をすることもあるかと思いますが、いざ真面目に聞法しよう、弥陀の救いにあずかろうという人には、弥陀の救いに条件付けをする元となります。

弥陀の救いを求める上で、無常は問題になってきます。だからこそ、急げ急げと蓮如上人はいわれています。

かかる世の中の風情なれば、いかにも一日も片時も急ぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定して(御文章4帖目13通・秋去り春去り)

老少不定の世の中だから、一日も片時も急いで信心決定して、この度の極楽往生間違いない身になりなさいと言われています。
無常というのは、私たちの実感とは関係なく、常に世の中のことは無常なのです。無常に責められようが責められまいが、無常の世の中ということはかわりませんし、命のある間でなければ阿弥陀仏に救われる事はないので、無常は問題になってきます。いつ無常がおそってくるか分からないからです。

また罪悪ということについていえば、「雑行雑修自力の心」が問題になってきます。
そのため、蓮如上人も御文章でたびたび書かれています。

ただ諸の雑行・雑修・自力なんどいう悪き心をふりすてて、一心に深く弥陀に帰する心の疑なきを真実信心とは申すなり。(御文章5帖目15通・夫れ弥陀如来)

ただ雑行・雑修・自力と言う悪い心を振り捨てて、一心になり阿弥陀仏をたのむ心に疑心がないことを真実信心というのだと言われています。

「無常や罪悪が深まった人」とは、「無常や罪悪を問題にしたから深くなった」ということではありません。問題にするところは、「阿弥陀仏に救われるか救われないか」ということで「無常や罪悪が深まったかどうか」ではありません。
ただ今救うというのが阿弥陀仏の本願ですから、ただ今の救いを求めて下さい。