安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私がどう思おうと全て解決済みであり、こうだから救われない、というのは無いと理解しました。という事は必ず救われるということではないでしょうか。ですがここに救われていない私がいます。」(AZさんのコメント)

AZ 2013/12/05 23:30
山も山さん、みなさん、ありがとうございます。
私がどう思おうと全て解決済みであり、こうだから救われない、というのは無いと理解しました。という事は必ず救われるということではないでしょうか。ですがここに救われていない私がいます。山も山さんはじめ皆さんと私は明らかに違う、この差は何だろうか。如来の願いをそのまま聞いてないからか?そのまま聞けないのも解決済みのはずだと思いますし。困ったことになりました。丁寧に教えてくださるのにすみません。ありがとうございます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131204/1386143290#c1386253840

AZさんのコメントを読み特に気がついたのは「必ず救われるということではないでしょうか」の部分です。そこがとても大事な所です。
AZさんが、以前のコメントで「壮大(?)すぎてどこか遠いところの話としか聞けないのです」と書かれたのは「助からないが当たり前」というのがどこか前提としてあったのではないかと思います。しかし、よくよく本願のいわれを聞いたならば「法の上では助かるのが当たり前」が前提となります。


私が以前所属していた団体では「堕ちて当然助かりゃ不思議」という言葉をよく聞きました。この「堕ちて当然」は、私自身の姿から言えばそうなります。しかし、そこには阿弥陀仏の助ける働き(法)を抜いた上での一面的な話です。つまり、阿弥陀仏の本願が成就している(法が働いている)という面から言えば「助かって当然、堕ちれば不思議」となります。


その「助かって当然」の法が成就しているのに、なぜ助からないのかとAZさんが疑問を起こされたのは、法を聞いておられるからです。言葉を変えれば、法に目を向けられたからです。それまでは、自分の心とずっと格闘してこられたのだと思います。しかし、自分の心と格闘をするというのは一見「求道」しているように見えますが、それは阿弥陀仏から「逃げ」ているだけに過ぎません。なぜならば、「助かって当然の法」に向けば、「法に欠点はなく自分に欠点がある」ということになるからです。それを最後の最後は認めたくないのがAZさんの心です。以前は、「法に欠点がなにかあるのでは?」と思う心もあったと思いますが、その言い訳は既にAZさんの中では断たれてしまいました。現在は、自分自身の中に「解決できる糸」を残して、「それは何か?」と一生懸命探しておられる状態だと思います。


「自分にどこか悪いところがある」という細い糸にすがっているのは、AZさんにとっては救われるかどうかの文字通り生命線なのでしょう。ハッキリ言えば、その糸にどれだけすがっても解決はできません。その糸がまさに自力そのものだからです。「自分にどこか悪いところがある」というのは裏を返せば、「自分にどこか助かる手だてがある」ということです。おそらくAZさんは、これまで聞法をされ、勉強もしてこられたことだと思います。それをどこかに誇る気持ちはないでしょうか?「これだけやってきたんだから」と当てにする気持ちはないでしょうか?


本願はすでに成就しているという点から言えば、それらは一切役には立ちません。最初から、それらを不要だと阿弥陀仏は本願を建てられて南無阿弥陀仏となられたのです。AZさんがすがっているその細い糸は直ちに放して、南無阿弥陀仏にまかせてください。ただ今救うの本願招喚の勅命は、その糸を放せと言う意味でもあるのです。
こういうと「その糸を放したら何もなくなってしまう」と思われるかも知れませんが、本来往生に関して何もないのが私です。なにも無いところに虚構の「なにか」を積み重ねて、自力の城を建設してそこにろう城しているのが今のAZさんです。すがったその手は放さねば、自力を捨てて弥陀をたのむとはなりません。「ただちに来れ」の南無阿弥陀仏の仰せを聞いてください。私も、コメントを下さったみなさんもAZさんを助けることはできません。

ただ今救う本願に、ただ今救われてください。必ず救われます。

AZさんのコメントに対するみなさんのコメントまとめ(エントリー公開時 2013/12/06 15:10)

とくよしみね 2013/12/06 00:01
追加
「そんなら、辞めとこ」となる人はとっくに辞めてます。
辞められずにぐずぐずしている人は、そのまま、
阿弥陀様のお力の方が強いので、救われるまで引きずられていくのです。
これを「摂取不捨」と言います。庄松同行の逸話にもあったと思います。
逃げる者を追っかけて捕まえる。必ず捕まえる。
ですから、途中で辞めても必ずまた、気になって求め出します。
まあ、そんなことをずっと過去世から繰り返してきているのでしょう。
後生が気になって、気になってという人、そうでなくても
このサイトを覗き、あっちのサイトを覗きしながら、なんとか
自分の後生を解決しようとされている人、こういう人を宿善の人と言います。
一度知ってしまったら、途中で辞めることが出来ないんですよ。
諦めて、阿弥陀様にさっさと救われて頂きたいと思います。

AZさま

お待ちしておりました。
よくよく、法を聞いてください。
やまもやまさんのブログ、そして、皆さんのコメントを良く読まれて、
その上で法を聞いてみてください。
必ず、法が届きます。
阿弥陀様の願いの方が私の思いより強いのです。
先手の阿弥陀様です。
私は後手です。
救いは、現在ただ今、落ちるそのままです。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏



イマジン 2013/12/06 05:07
AZさま

あなたと阿弥陀仏の間には一分のすき間もありません。ただ南無阿弥陀仏して下さい。

必らず願力が働き摂取したまいます。
他の人とあなたの「彼我の差」を埋めるのは、あなたの力ではありません。南無阿弥陀仏が埋めるのです。

信じる心のないままに阿弥陀仏におまかせする。
最後の大一番です。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏



もかな 2013/12/06 07:11
「安心問答」には、眼の開いたお同行さんが何人もおられるのですね・・・(すごい!)
皆さんのコメントを(その通り、その通り…)と思いながら読ませて頂きました。

AZさん
私は、「自力ほっとけ(相手にするな)」と言われてきました。
自分のゴチャゴチャした思いはひとまず横に置いて、とにかくじっくりと法を聞いて下さい。

それと「ぶつかって聞け!」とも教えられてきました。
だから今まで(なんで自分は後回しなんだ!)と、阿弥陀様にぶつかって聞いてきたのです。
文句も愚痴も全部、阿弥陀様にぶちまけて下さい。
「わからん」ものは「わからん!」と叫べばいいのです。

「そのままと言っておるだろう!」と阿弥陀様に一喝されて、必ずひっくり返される時が来ます。
イヤでも「参りました・・・」と降参する時が来るのです。

ご恩尊や南無阿弥陀仏・・・なのですよ。



たかぼー 2013/12/06 10:48
AZさん
「私がどう思おうと全て解決済みであり、こうだから救われない、というのは無いと理解しました。という事は必ず救われるということではないでしょうか。ですがここに救われていない私がいます。山も山さんはじめ皆さんと私は明らかに違う、この差は何だろうか。如来の願いをそのまま聞いてないからか?そのまま聞けないのも解決済みのはずだと思いますし。困ったことになりました。」

 当然そのような思いになります。そのような思いになってあたりまえなのです。それは本願を教える人が正しく教え、聞く人がこれを正しく理解し、その本願の願いのようになりたいと思う心があなたの心の中に生じたことから出てくる思いなのです。しかし、実は、この思いが「疑情」とか「自力の思い」というものなのです。困るはずのない本願の願いがあるのに、あなたは「困った」という。「困った」というのは本願の願いとまったく相応していない思い、ということですから、これを本願に対する疑情というのです。
 さて、このような疑情が出てきて本当に良かったですね。ここから先は、あなたと如来との問題です。如来はあなたの「困った」と思いをすっかりきれいに取り除いてくれますよ。そのとき、如来の願心がまことであると信知する、その信のなんたるかを自分の身の上において如実に知ることができます。もうすぐです。如来の仰せを仰ぎ頂くだけです。



たかぼー 2013/12/06 10:53
・・「困った」と思いを・・→・・「困った」との思いを・・。 誤記、失礼しました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131204/1386143290#c1386255714