安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

ただ今聞く法をただ今聞くと言われてもどうしたらいいのかわかりません。何度ただ今救う法を聞かせていただいても、ただいま聞いたという状態になりません。ただ右から左へ聞いたことが流れていくだけで何も自分には残りません。どうしたら良いですか?(頂いた質問)

ただ今聞く法をただ今聞くと言われてもどうしたらいいのかわかりません。
何度ただ今救う法を聞かせていただいても、ただいま聞いたという状態になりません。
ただ右から左へ聞いたことが流れていくだけで何も自分には残りません。
どうしたら良いですか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願は、ただ今救う法には違いありません。それを聞いて疑い無いことを信心といいます。
そこで、親鸞聖人は

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P677)

https://goo.gl/HuJqBH

と言われています。
本願の名号である、南無阿弥陀仏を聞くことが聞いたということです。また、ただ今救う本願だと聞いて疑い無いことを「聞いた」といいます。

そこで、お尋ねでは「聞いたものの自分には何も残らない」と言われています。言い替えると「ただ今救う法とはこういうことだったのか」というものが残らなかったということかと思います。あるいは、涙がでるような感動が起こらなかったということかとも思います。

まず、前者の「こういうことだったのか」というものが残らなかったについて書きます。
「本願をききて疑ふこころなき」とは、「本願とは○○ということであった」と言い替えたり、「本願とはつまりこういうようなことですよね」と概念化や例えられるようになることではありません。南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞き、ただ今助けるは「ただ今助ける」と聞いているのが「疑ふこころなき」ということです。こちらであれこれ本願について注文や解説を加えないことをいいます。


あれこれ注文をつけるというのはどういうことかと言えば「ただ今助けるとはどういうことか?」「例えるならばどういうことか?」「それってつまりこういうことですか?」と何か言葉を付け加えたり、例えを用いないと分からないという状態をいいます。しかし、そういう言葉を足さなくても「ただ今助ける」は「ただ今助ける」以外にはなにもありません。丁度食べ物の味は、別のもので例えてもその味そのものをあらわさないのと同じです。


ですから、「本願をききて疑ふこころなき」といっても、今まで聞いてきた本願が全く別物に聞こえるようになるわけではありません。今まで聞いて何も残らなかった本願が、心の中に何か残る本願に変質するというわけでもありません。「本願」を「本願まこと」と聞いているだけで、本願そのものは何も変わりません。

では、ただ今聞いたという状態になったら何が変わるのかというと、「右から左へ聞いたことが流れていく」という意味では変わりません。ただ、その聞いているままが、そのまま「ただ今助ける法」そのまま聞いているのです。それ以前は、「ただ今助ける」以外の何かがあるという前提で聞いています。それは、本願に注文をつけているのです。ただ今助けるには、それ以外には何もありません。ただ今助けるとの仰せだから、それを聞いているままが、ただ今助かるという信心となります。


次に、後者の涙が出るような感動が起こらなかったについては、そのように感動する人もあるでしょうし、そうでない人もあります。ただどちらにしても、南無阿弥陀仏を自分の所有物として所有できたというような感動はありません。そういうものならば、信心とはいいません。なぜなら、南無阿弥陀仏は、特定の場所や大きさに収まるようなものではないからです。南無阿弥陀仏は助ける法ですが、法の働くところはこの世の全てで働いていない空白地はありません。どこかにあったり、所有できる南無阿弥陀仏ではなく、助ける法が助けると働き、それによって助かるというのは有り難いことです。


しかし、元々ある法のお働きに救われ、聞いてきた法を聞き入れるのですから、「初めて聞いた」「初めて知った」というものはありません。ただ、聞いてはいたけれど、自分であれこれ付け足してまたは概念化していただけで、それは本来の本願を聞いていなかっただけなのです。

ただ今救う法を、ただ今聞いて救われて下さい。