安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏を信ずる心がないのは、「まことのこころ」がないのが本当だから(カナダ人さんのエントリー)

カナダ人さんにお尋ねした件について、コメントを頂きました。その部分についてのエントリーです。

  1. 「この私をただ今救うだけの力がある、とはこの私は思っていないのです。」というのは、他の人を助ける力はあるけれども、「この私を」助ける力は阿弥陀仏の本願にないということでしょうか?
  2. 上記のようなことは、最初から思われていたのか、それとも途中からそのように思われるようになったのでしょうか?
  3. もし、途中から思われるようになったのなら、そのきっかけというか、過程はどのようなものでしょうか?
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090321/1237591242

上記の質問について、コメントを頂きました。

お尋ねの3件につきまして、番号順に書かせていただきます。
1.山も山さんが、親鸞聖人の御和讃を示して教えてくださっている通り、阿弥陀仏の本願は、他の人を助けるお力があることは言うに及ばず、私を助けるお力もあります。しかし、私には他の人の心の中は分かりませんが、この私の心は「この私を助ける力がない。」と思っている、ということです。
2.最初は阿弥陀仏にはただ今一念で救う力があると思っていたけれど、途中からそのように思うようになりました。
3.信じられないし信じる必要もないのに、信じようとする心から離れられません。そのままタノメず、頑として信じてからうちまかせようとしてしまう心が離れません。何故このような心が廃らないのでしょうか?何故こんなことばかり繰り返すのしょうか?どれだけ考えても埒があきませんし分かりません。そこで、そのような自分の心は、そもそも阿弥陀仏の本願をどのように思っているのか?と心を見つめると「この私をただ今救うだけの力がない。」と思っているのです。きっかけというか、過程は以上のようなものです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090321/1237591242#c1237644154

阿弥陀仏には、助ける力はあるけれども「この私」を助ける力はないと、途中から感じるようになったということだとコメントを頂きました。
カナダ人さんの心には、「阿弥陀仏を信じられない心」と、「信じようとする心」が二つあるようです。

結論から書きますと、「阿弥陀仏を信じられない」のが本当です。「信じようとする心」は阿弥陀仏によっておこされた心です。自力の心と菩提心が混乱しているので、何を捨てるべきかがハッキリしない状態です。
阿弥陀仏からご覧になれば、まことの心のない私たちには、阿弥陀仏を信ずる心がありません。

無慚無愧のこの身にて
まことの心はなけれども
弥陀の廻向の御名なれば
功徳は十方にみちたまう(悲歎述懐和讃)

親鸞聖人も言われているように、他人にはずる心も自分にはずる心も無い、無慚無愧の私であるから、まことの心は一つも無い。阿弥陀仏の方から、南無阿弥陀仏をさしむけて下さるから本当の幸せの身になれるのです。
阿弥陀仏を信じられないと言った上で、阿弥陀仏に救いを求める心が起きる人は、自分の姿が照らされているのであって、なにか自分はだめだと悲観する必要はまったくありません。元々あったものが見えるようになっただけです。
阿弥陀仏を信じられないと言いながら、真実信心を求めるのはなぜでしょうか?
言葉上は非常に矛盾をしている所ですが、阿弥陀仏の光明によって、信じられない自分の姿が照らされ、真実信心を求める心をおこされているのです。

それに阿弥陀仏にうちまかせるのが悪いのではありません。蓮如上人も御文章にたびたび「弥陀をたのめ」といわれていますから、そのようにしようということ自体はよいことです。

されば、ただ弥陀仏を一念に深くたのみたてまつること肝要なりと心得べし。(御文章5帖目21通・当流安心・経釈明文)

阿弥陀仏を南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から賜る一念にたのむことがもっとも大事なことなのだと言われています。
実際に「弥陀たのむ」身になるのですから、「弥陀をたのむ」身になって下さい。
そこで、何でもかんでも「弥陀をたのむ」というのは自力だから捨てよと言われているように思っておられるようですが、違います。

もちろん、「弥陀をたのむ」とは、体や口や心でお願いするということではありません。
「阿弥陀仏に信じてうちまかせよう」という心は、阿弥陀仏からおこされた心だと最初に書きました。それは阿弥陀仏がおこして下された心ですから、またそれがなければ信仰を求める心、聞法心や求道心はどこからも私たちの心からはでてきません。

では、自力の心とは何か?ということになりますが、これはカナダ人さん自身に聞いてみないと分からないところなので一つお尋ねします。

阿弥陀仏に信じてうちまかせようとして、実際に「弥陀たのむ」身になりました?なれないとした時に、おきた心を打ち出して見て下さい。

阿弥陀仏に救われるのは、「一念に深くたのみたてまつる」のは、現在ただ今のことです。ただ今弥陀の本願に救われて下さい。

ドイツ人さんよりコメントを頂いておりますが、明日エントリーいたしますのでよろしくお願いいたします。