安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

段階はあっても「信・不信」の二つです(ドイツ人さんのコメントより)

ドイツ人さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

100通り、というのは、疑いに100あるのではありません。その人の感じ方が100通りあるのではないか、ということです。
それと、もし段階がないのなら、真剣に疑情が問題になっている人も、大学に入ったばかりで始めて弥陀の本願を聞いてほんとかなあと思っている人も、同じくただ今救われるのですか?
(ドイツ人さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090320/1237499941#c1237599000

疑情は一つですが、感じ方に100通りあるのではないかということだと、コメントを頂きました。また「もし段階がないのなら」とコメントを頂いておりますので、総合しますと、疑情が問題になった人でも、信仰には100通りくらい段階が存在すると言うことでよろしいのでしょうか?

信仰にそのような様々な段階があるという意見だという前提で回答をいたします。
結論から言いますと、疑情が問題になった人に段階をつけるならば「救われているか、いないか」「信心獲得しているか、いないか」の二つです。

信心を獲得せしめたる人もあるべし、また不信心の輩もあるべし。以ての外の大事なり。(御文章5帖目11通・御正忌)

蓮如上人の御文章には、信心を獲得した人がいる、まだ信心決定していない人がいるというような表現ばかりです。

阿弥陀仏に救われる前でも、2通りでしか言われていません。

当流の意は、人を勧化せんと思うとも、宿善・無宿善の二を分別せずは徒事なるべし。この故に、宿善の有無の根機を相計りて、人をば勧化すべし。(御文章4帖目1通・念仏行者)

浄土真宗の教えを人に伝えるときには、宿善か、無宿善かを判別しないと意味が無くなってしまう。相手に宿善(聞法心)があるかないかをよく考えて、人を勧化しなさいといわれています。

疑情が問題になるような方は、宿善の人ということになりますから、ドイツ人さんのいわれるような、疑情が問題になった人でということでいえば、1通り、その上で、阿弥陀仏に救われた人かそうでないかで、2通りということになります。

お尋ねの、現在疑情が問題になっている人と、聞き始めたばかりで、阿弥陀仏の本願も本当かなぁという人は確かに違います。しかし、そんなことを言っている人が、「ただ今救われよう」という気持ちに、今はならない、ひまがかかるということは絶対にいえません。阿弥陀仏の願力の働きによるのですから。

第三者的に結果からいえば、現在疑情で苦しんでいる人よりも、聞き始めた人のほうが、早く阿弥陀仏に救われると言うことはあるのです。仏法を聞いているといっても、親鸞聖人が「遠く宿縁を慶べ」と言われているように、阿弥陀仏の働きかけは遠く遠く過去から働いているのですから、今生の聞法歴というのは、長い魂の歴史から言えば問題になりません。

これは第三者の問題であって、大事なことはドイツ人自身が、阿弥陀仏の本願の救いが自分の救いとなっているかどうかなのです。現在ただ今救われるのは、自分自身であって、隣の人が救われたとしても私の救いではありません。
浄土真宗の信心は、一人一人が求め、一人一人が阿弥陀仏より賜る真実信心です。段階があるのかないのか?ではなく、自分が救われるか救われないかが問題ではないですか。

ただ今救われるのですか?は誰のことでしょうか。聞き始めの大学生のことではないでしょう。この文章を読まれている方、あなたご自身が阿弥陀仏にただ今救われるのです。ただ今救うというのが阿弥陀仏の本願ですから、ただ今救われて下さい。