安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

追記:「阿弥陀仏にお願いしているつもりはないのですが」について

前回のエントリーに追記します。
弥陀をたのむとは、阿弥陀仏にお願いすることではありません。阿弥陀仏の仰せをそのまま聞いたことであり、ただ今救うの仰せにまかせたこといいます。


しかし、私も以前はお願いするような気持ちでいました。「お願いするのではない」と理解しているつもりでしたが、そのときの気持ちを思い出して考えて見ると阿弥陀仏の返事を待っているような状態でした。


これだけ○○しているから、あとは阿弥陀仏は助けてくださるのではないかと期待をするのは、「救いを待っている」だけでお願いしているように自分では思えません。しかし、「待つ」という行為そのものは、その前提としてこちらからお願いをしその返事を「待っている」状態です。お願いをしなければ、待つ必要はありません。


阿弥陀仏の喚び声は「ただ今救う」であって「お前の願い通り助けてやるぞ」ではありません。私の願いをかなえて下さるという救いは、私の願いが先にあるので、本願が先手になりません。あくまでも「ただ今助ける」の阿弥陀仏が先で、それによって救われます。


私の願いに対する返事を阿弥陀仏に求めて待っていても、「返事」は死ぬまで待っても聞こえません。なぜなら、阿弥陀仏の本願は私の願いに対する返事だからではありません。返事を待つ気持ちは直ちに捨てて、ただ今救うの本願を聞いてください。