安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「この私を」救う力が阿弥陀仏にはないというのは、「この私だけ」でしょうか?(カナダ人さんのコメント)

カナダ人さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
阿弥陀仏の本願に向かったときに、「有り得ない」という心が起きると言うことについて、どういう心なのかをお尋ねしました。

ただ今救う本願には、この私をただ今救うだけの力がある、とはこの私は思っていないのです。そもそも、ただ今救う本願には、この私をただ今現在一念で救い取るだけの力が無い、とこの私は思っています。だから、「ただ今救うの本願」を信じられないし、信じられない本願にただ今私が救われるということは分かりません。このような私が、現在ただ今救われるということは、私には全く考えられないことだし、考えられないことだから、私には全く有り得ないことだと思ったのです。
(カナダ人さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090320/1237499941#c1237554781

思ったことを打ち出して頂き有り難うございました。
回答いたします。まず、「阿弥陀仏の本願に力があるのか、ないのか」と言うことについてですが、親鸞聖人はこのように教えられています。

願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず(正像末和讃)

阿弥陀仏の本願力には、際限がないのだから、どんな罪や悪業が深くて重いものでも、その罪によって助けることができないと言うことはありません。
阿弥陀仏の智慧が届かないところはないのだから、どれだけ心が散り乱れている者、勝手きままな者でも見捨てられることはないのだと言われています。

「本願力」については、親鸞聖人はこのように教えておられます。

カナダ人さんは、ここにコメントされているようなことを、最初から思われていたのか、それとも、最初は阿弥陀仏にはただ今一念で救う力があると思っていたけど今はそう思わないのかによって、また回答が異なってきます。

そこで、重ねてお尋ねします。

  1. 「この私をただ今救うだけの力がある、とはこの私は思っていないのです。」というのは、他の人を助ける力はあるけれども、「この私を」助ける力は阿弥陀仏の本願にないということでしょうか?
  2. 上記のようなことは、最初から思われていたのか、それとも途中からそのように思われるようになったのでしょうか?
  3. もし、途中から思われるようになったのなら、そのきっかけというか、過程はどのようなものでしょうか?

以上3つお尋ねします。
重ねてお尋ねすることになり、申し訳ございません。
打ち出された内容にかんしては、こんなことを言ってはならないのではないかと思われずに、思ったことを率直に打ち出して下さい。
よろしくお願いいたします。