安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

有り得ないとは、どういうことが有り得ないのでしょうか?(カナダ人さん、ドイツ人さんのコメント)

カナダ人さんからコメントを頂きました。有り難うございました。

「ただ今救うの本願」に向って救われようとするとき出てくる心を飾らずに、カッコをつけずに、勇気を出して、敢えて打ち出しますと、現実的に私の身に「そんなことは有り得ない」「そんなことは信じられない」そして、全く「分からない」というのが、今私が思っているありのままの心です。ただ今救われていないのは、こういうことを思っている私の心(疑情)が本願を妨げているからだと思います。
(カナダ人さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090318/1237328133#c1237386197

阿弥陀仏の本願に向かって出てくる心を、そのまま打ち出して頂き有り難うございました。ありのままに言うときに、「こんなことを思って、口に出していいのだろうか」とか、「こんなことを口にしたら謗法罪ではないか」とか思う方もあります。しかし、それは信心の沙汰をしようというときには、そのような心配は全く無用です。
謗法罪と言うことから言いますと、すでに阿弥陀仏の本願に「唯除五逆誹謗正法」と誓われているのですから、思ったことを言わなかったら謗法罪の者では無いと言うことではありません。

還来生死輪転家
決以疑情為所止(正信偈)
「生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す」

と親鸞聖人が言われています。生死輪転から離れきれないのは、謗法罪をつくるからではなく、疑情一つが原因なのです。決するにと言われているとおりで、これ一つが決定的なものなのです。

カナダ人さんは「そんなことは有り得ない」「そんなことは信じられない」と言うことですが、「有り得ない」というのにもいろいろと理由はあると思います。
時間的に、「今救う」というのが有り得ない
罪悪と言うことから、「今救う」というのが有り得ない
罪悪というのは、たとえば「今信じられない者がどうして助かる」「全く分からないものがどうして助かる」といったものです。

そこで、重ねてお尋ねします。

「そんなことは有り得ない」という理由はどういうところにあるのでしょうか?なぜ自分がそのように思うのか?について、すでにお聖教に出ている言い方でも結構ですが、自分の感じた通りを思ったまま書いていただければ結構です。
よろしくお願いいたします。

関連して、ドイツ人さんからコメントを頂いております。初のコメントを頂き有り難うございました。

「私の心に疑情がある」といっても、未信の人が100人いれば、100通りの疑情があります。
信仰がどれだけ進んでいるかで、疑情がどれだけ見えてくるのか違うのです。
阿弥陀仏の本願に疑いが起きたら、「それが疑情だぞ、それ一つだぞ」とまくしたてるのが正しいのかどうか、私には疑問です。
自分が疑情だと思っている「疑情」が、本当に親鸞聖人の言われた疑情なのかを、よくよく確認するためにも、自分の思っていることを洗いざらい打ち出して、ものを言うことは大事だと思います。
(ドイツ人さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090318/1237328133#c1237454690

ドイツ人さんは、信仰に段階があるように書かれていますが、これではただ今の救いにはならないので間違いです。信仰等のは、阿弥陀仏から真実信心を獲得するかしないかということですが、それに段階を設ける心をまた自力といいます。
また、100通りの疑情というと、疑情にもいろいろあるようですが、表現は人によって言葉にあらわせば違いますが、ものがらは一つです。
また阿弥陀仏の本願に対する疑いと言っても、謗法罪から言うものと、疑情ということから言うものと、混じっているので、なんでもかんでも「それが疑情だぞ」といっているのではありません。打ち出さねばそれが分からないからです。
親鸞聖人や蓮如上人の書かれたものには、「こういう心が疑情だ」「こういう心を自力という」というものはたくさんあります。

「自力」というは、我が身をたのみ、我が心をたのむ、我が力をはげみ、我がさまざまの善根をたのむ人なり。(一念多念証文)

自力というのは、自分の体をたよりにし、自分の心をあて力にし、自分の力でなにかしなければならないと励み、自分のやった善根をあてにしている人をいうのだといわれています。
段階を設けるのは、親鸞聖人のお言葉で言えば「我が力を励み」ということになります。自分で段階を設けて、そこまで一つ一つ自分で到達していくのが信仰のように思う方もありますが、それではただ今の救いにはならないのです。

加えて、自分の心か疑情かどうかをよくよく確認することが目的ではありません。疑情を知らせるというのが阿弥陀仏の本願ではありません。現在ただ今救うというのが阿弥陀仏の本願です。