安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「煩悩具足の凡夫や罪悪とか事実としてはそうなのですが、そういうことばかり聞いていると強烈な自己否定を感じます。(そのような私を救う阿弥陀様なのでしょうが…)自尊心と罪悪感は両立する者なのでしょうか?(Peing質問箱より)

Peing-質問箱-

人が生きていく上で自己肯定感や自尊心はとても大切なものだと思います。 | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。

罪悪の話を聞いて自己否定と受け取れば、自尊心と両立することはありません。
自尊心とは、自分を価値のあるものととらえる心とされています。
それに対して、罪悪感といった時は、自分を罪深い者ととらえることになるので両立はしません。

真宗では、阿弥陀仏をたのもしく思うことはあっても、自分をたのもしく思うことはありません。仏の慈悲は、自分の罪悪の中に味わうことを通して知らされますが、やはり罪悪が「よいもの」とか「誇らしいもの」と転換するわけではありません。

これに加えて書きます。
いわゆる仏願の生起本末の話の中で、法蔵菩薩がどのように私をみておられるかということで、罪悪についての話をすることは私もあります。ただそれは、話を聞く人に罪悪を感じてもらうためではなく、どれだけ罪が重いものでも阿弥陀仏は救って下さるということをいうためです。


親鸞聖人の正像末和讃にも、そのように書かれています。

(37)
願力無窮にましませば
 罪業深重もおもからず
 仏智無辺にましませば
 散乱放逸もすてられず(正像末和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P606)

ただ、この和讃でも書かれているのは、「願力」と「罪悪」を対比させて、「願力無窮」だから「罪業深重もおもからず」だと言われています。そこは「救えるか救えないか」という話であって、私が罪悪深重だから「価値があるとか無いとか」という話ではありません。

阿弥陀仏は裁判官ではないので、私の罪悪を裁く方ではありません。罪悪に関係なく救って下さるのですから、その罪悪によって私を否定されるのではありません。また、罪悪があることを肯定されるのでもありません。

阿弥陀仏の本願は、自力では生死を離れることができない私のために建てられたものであって、罪深いというだけの理由で建てられたのではありません。

自己肯定感・自尊心と救いについて

阿弥陀仏は「摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」仏さまです。
ひとたび救って下さったならば、決して捨てられません。それは、私が「正しかったから」捨てられないのではありません。もしそう思えたのならば、「自己肯定感・自尊心」が満たされると思います。

しかし、阿弥陀仏は「私が正しいから」救って下さるのではありません。自分の力では生死を離れることができないから救って下さるのです。そんな自分を「価値がある」「価値がない」と思うのは私の方で、阿弥陀仏は私にラベルを貼って評価をされる方ではありません。

自分で自分を肯定しようが、否定しようがそれと関係なく私を捨てられないのが阿弥陀仏です。その意味では、自己肯定感も自尊心も、自己否定も救いとは関係ありません。

何があっても捨てられない阿弥陀仏が、私を支えて下さるという意味での安心はあります。

まとめ

罪悪の話を聞いて、自己否定の気持ちになることはあっても、基本的に「どんな者も救う阿弥陀仏の本願」の話ですので、本願の話として聞いてください。
阿弥陀仏の救いは、自分を「肯定する」「否定する」に関係ないものです。そういう意味で、「自尊心」と「罪悪感」は両立するものかという問いについては、一般論としての答えとなるので両立しません。

ただ、真宗の救い・阿弥陀仏の本願の上での話としては、「罪悪深重のものを救う本願」に救われても、それは「罪悪深重の私」が「肯定された」ことでも「否定された」ことでもないので、自己肯定感や自尊心が満たされるということはありません。
摂取不捨の救いにあうということは、私を否定も肯定もせず、捨てられない南無阿弥陀仏にあうということです。それは有り難いと表現することはあっても、自尊心とはまた異なるものです。