安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

聖道仏教は方便ですが、方便だから聖道仏教をせよとは教えられていません(BHさんのコメント)

向き合う自己とは、弥陀の本願に向かった上でのことです(BHさんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について)について、BHさんから、コメントを頂きました。有り難うございました。

釈尊が聖道仏教を説かれた御心、一切経の99.9%は聖道仏教である意義を教えてください。
(BHさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090219/1235003352#c1235135983

上記の件について、回答をいたします。
釈尊が聖道仏教を説かれたといいましても、仏教は対機説法、応病与薬といわれ、そのときそのときの相手に応じて説かれたものです。お釈迦様が生きておられた頃、釈尊のところで法を聞いていた人に法を説いた結果が、ほとんどが現在で言う聖道仏教の教えになったと言うことです。
なぜ、ほとんどが現在聖道仏教と言われるものなのかといえば、相手がほとんどそういう人であったからです。

しかし、親鸞聖人がお生まれになられた頃はすでに末法の世になっていましたので、親鸞聖人は、このように言われています。

末法五濁の衆生は 聖道の修行せしむとも 
ひとりも証をえじとこそ 教主世尊はときたまえ(高僧和讃)

末法の世に生まれた人間は、聖道仏教の修行をしようとしたとしても、一人も証をうることはできないと、お釈迦様は説かれているといわれています。
また、実際比叡山で20年間法華経の修行に打ち込んでも、救われなかった体験からも言われているお言葉です。

また、蓮如上人は、このように教えておられます。

いずれも釈迦一代の説教なれば、如説に修行せばその益あるべし。さりながら、末代われら如きの在家止住の身は、聖道諸宗の教に及ばねば、それを我がたのまず信ぜぬばかりなり。(御文章2帖目3通・神明三箇条)

聖道仏教のいろいろな宗派は、どれもお釈迦様の教えであるから、その通りに修行ができればさとりを開くことができるでしょう。しかし、末法の世の我々のような修行もしない在家の者は、聖道仏教の教えにはとても及ばない身であるから、それによって救われようと思わないだけなのだ、と言われています。

聖道仏教は、方便であるということと、方便だから聖道仏教をやらねばならない、ということではありません。

親鸞聖人にしても、比叡山で20年間修行をしたから救われたのではないのです。あくまでも阿弥陀仏の本願力によって救われたのです。

だからこそ、聖道仏教では助からないと生涯教えていかれ、「一向専念無量寿仏」と伝えて行かれたのが親鸞聖人です。