安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「けど、いつか」ではなく「ただ今」が阿弥陀仏の救い(よこやりさんのコメントより)

よこやりさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

「助からない者」と教えられても、(阿弥陀仏はお慈悲な仏様だから、今はまだ救われていないけれど、いつか必ず助けて下さるだろう。)という思いががんとあって
「今しかない」と思いきれません。何かまちがっているのでしょうか?
(よこやりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090220/1235089850#c1235133352

まず、「今はまだ救われていないけれど、いつか必ず助けてくださるだろう」と言うことについてですが、救われるのは「ただ今」のことで、「けど、いつか」ではありません。
もちろん、「すべての人を助ける」という阿弥陀仏の本願だから、現在救われていない人も、いつか助かるときがあります。ただそれは阿弥陀仏が言われることであって、救われる側の私が言うことではありません。
「今はまだ救われていない」ならば、今救われてください。
救われるのは「ただ今」で、「いつか」ではないのです。その「いつか」は、明日でしょうか?来月でしょうか?来年でしょうか?5年後、10年後でしょうか?
そう考えると、「助かりたくない」といえば語弊がありますが、阿弥陀仏の本願から逃げている姿が、「いつか」にあらわれていることがわかります。
本当に会わねばならない人ならば、「またいつか」とは言わないでしょう。「助けてください阿弥陀様、いつかそのうち来てください。待ってますから」と逃げるのです。
現在ただ今、平生の一念で、救われるかどうかは決まるのです。

然れば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定の念に住せばかなうべからず。(執持鈔)

平生の一念に、弥陀の浄土に往生できるかどうかは決まるのです。現在ただ今(平生のとき)に、往生が定まっていない人は、死んでも弥陀の浄土にはいけませんと言われています。

阿弥陀仏が「平生の一念」と誓われているのに、救われる側は「いつか」といっているから、本願に相応しないのです。本当にただ今救われようと思うなら、「いつか」ではなく、「一体いつだ?」となってきます。
「今はまだ救われていないけれど、いつか必ず助けてくださるだろう」が、
「今はまだ救われていないけれど、一体救われるのはいつだろう?」となります。

本当に急いでいるとき、緊急事態の時はそうはならないでしょうか?
家族が突然意識不明になって、救急車を呼んだとして、なかなか来ない救急車にたいして「消防署が今すぐいくといったから、必ずいつかくるでしょう」とじっとしてはおれないでしょう。
「消防署は今すぐいくといったが、一体いつくるのだ?まだ来ないのか?」と、じっとしておれないのではないでしょうか?

現在ただ今の救いの阿弥陀仏の救いに向かうというのは、じっと待っていることではありません。救いを実際に求めることなのです。

けついさんからコメントを頂きました、有り難うございました。

私は、借金してまで、立派な温泉に入りたいとは思いません。借金してまで、おいしいものを食べたいとも思いません。私は、信心決定したいのです。
(けついさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090211/1234310703#c1235166780

なんとしても、阿弥陀仏に救われたい、信心決定したいという心は本当に大事なこころです。
「いま助からなかったら困る」と、真剣に弥陀の救いを求めてください。必ず救われるときがあります。