安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「血のにじむような努力」はどこでするか?(よこやりさんのコメントより)

よこやりさんからコメントを頂きましたので、回答いたします。

「血のにじむような努力」と「大千世界が火の海原になってもそこを突破して聞け」は、イコールではありません。加えて言えば「覚悟」の問題でもないのです。
「大千世界が火の海原になってもそこを突破して聞け」と「そこを突破する『覚悟』で聞け」は同じではありません。阿弥陀仏によって本当に突破させられると言うことです。
真実信心とは、「私の」血のにじむような努力の結晶でもなければ、「私の」覚悟の結果でもないのです。
ですから、「血のにじむような努力」ができたかどうか、「命がけの覚悟」ができたかどうかは、問題ではありません。あくまでも「雑行雑修自力の心」が廃ったかどうかが問題なのです。
言葉をかえると、南無阿弥陀仏の名号を受け取ったかどうかなのです。

よこやりさんからコメントを頂いています。

「名号に信じる心もおさまっているのだ」とお聞きして、疑い深い私にはこの弥陀の本願でなければ救われないと思い、また真実の教えだと確信して、その信心を頂きたいと、求めてきました。どうしたら頂けるのか?・・今もわかりません。
(よこやりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090218/1234915993#c1234949813

どうすれば、名号を頂き、真実信心を獲得する身になれるのか?
「血のにじむような努力」という言葉は、オリンピックで金メダルを取る以上に、真実信心を獲得すると言うことは確かに難しいことに違いありません。これは、「難しい」という点においての話です。
真実信心と、金メダルの全く違うところは、真実信心は自力の心をすてて獲得するものですが、金メダルはたゆまぬ「血のにじむような努力」を積み上げていったものだからです。

愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す。(教行信証)

この親鸞は、建仁辛酉の暦に、雑行を棄てて、阿弥陀仏の本願に救われたといわれています。
20年の比叡山での修行を積み上げて、救われたのではありません。雑行を棄てて救われたと言われています。「積み上げる」と「棄てて」では、全く違います。
「そんな心にいつかなれるのだろうか」「とてもそれだけの気持ちは今の自分にはない」と、「そんな心に」「それだけの気持ち」に、自分で覚悟してなってから、救われるのではありません。
「ただ今の弥陀の救い」に救われるのに、覚悟をしている時間が必要ならば、一念の救いにはなりません。

「命がけの努力」は、阿弥陀仏が本願を建てるときにされているものなのです。
それが、「五劫思惟」とか「兆載永劫の修行」といわれるものなのです。

それ、「五劫思惟の本願」というも、「兆載永劫の修行」というも、ただ我等一切衆生をあながちに助けたまわんがための方便に、阿弥陀如来御身労ありて、南無阿弥陀仏という本願をたてましまして、「迷の衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまいらせて、諸の雑行を棄てて一向一心に弥陀をたのまん衆生を、たすけずんばわれ正覚とらじ」と誓いたまいて、南無阿弥陀仏となりまします。(御文章5帖目8通・五劫思惟)

「五劫思惟の本願」というのも、「兆載永劫の修行」というのも、私たちすべての人を必ず助けるために、阿弥陀仏がご苦労をされて、南無阿弥陀仏の名号を成就する本願を建てられて「一念に、もろもろの雑行を棄てて、一心に阿弥陀仏にうちまかせるものを、必ず助けてみせる、もし助けることができなければ命をすてる」と誓われて、南無阿弥陀仏が完成したのです。
その南無阿弥陀仏は、「諸の雑行を棄てて一向一心に弥陀をたのむ」衆生を助けると言われています。血のにじむ努力をした人でも、覚悟をした人でもありません。「諸の雑行を棄てよ」といわれているのです。

この雑行雑修自力の心は、現在ただ今弥陀の本願に救われようと、弥陀の本願に向かった人に見える心ですから、その心を棄てるというのが、それこそ難しいのです。簡単なことではありません。簡単ではないですが、必ず救われるときがあります。
雑行雑修自力の心が見えてからの、「棄てよう」ですから、見えない先に「努力をしないと自力が分からない」というのは、順番が反対です。
「血のにじむような努力をした」から、自力の心が知らされるのではありません。
自力の心が知らされて、それをどうしたら棄てられるのだろうかという、「血のにじむような努力」をする気持ちにさせられるのです。
「ただ今救う本願」を遠くにやるのではなく、種々の条件をつけず、現在ただ今救われる本願に、現在救われてください。

ご不明な点は、遠慮無くお尋ねください。