s 2018/08/13 02:34
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180811/1533965116#c1534095278
救われるというのはどういうことでしょうか。
日常会話で「救われる」というのはいろんな意味で使われると思いますが、阿弥陀仏の救いとはどのような救いなのでしょうか。
「救われる」「救われた」とは、日常でもしばしば使われる言葉です。
その中で阿弥陀仏の救いは、浄土に往生し仏になるという救いです。加えて、生きているただ今に救われた人は、浄土往生が定まるというものです。
その意味では、一時的な「救われた」ではなく、一度救われたならばそのあとずっと救われるというのものです。
では、何から救われるかといえば、仏教の言葉で「生死を離れる」といいます。
親鸞聖人が、救いを求めておられていた頃の様子を、親鸞聖人の奥さんである恵信尼公は、手紙で以下のように書かれています。
法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにもまゐりてありしに、ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひし(恵信尼消息 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P811)
http://labo.wikidharma.org/index.php/恵信尼消息#P--811
親鸞聖人は、比叡山で二十年にわたる修行をされました。その後、比叡山を下りられて法然聖人から話を聞かれるようになりました。そして、法然聖人にあわれてから、以前六角堂に百日間籠もられたように、百日の間、雨が振るひも太陽が降り注ぐ日も、どんな大風が吹いているときでも、参詣されました。法然聖人は、どんな人にもただ後世のことは、同じように「生死出づべき道」を、ただ一筋にお話しされることを、受け取られておれました。
親鸞聖人が求められた救いは「生死出づべき道」でした。そしてそのことを、法然聖人はどんな人にも語っておられました。そして、親鸞聖人は「生死出ずべき」身になられたことを、「救われた」といいます。
しょうじ 生死
有漏の業によって三界・六道の迷いの世界を生まれ変わり死に変わりして輪廻すること、あるいは迷いの世界そのものを指していう。(浄土真宗辞典)
縮めていえば、迷いの世界を離れることをいいます。六道輪廻を離れることをいいます。
仏教でいう六道輪廻は、私も含めて「そうしたくてしている」ものではありません。この煩悩具足の身で行うさまざまな業によって引き起こされるものです。いわば、自分の業によってどうにも生死から離れることができない私を、そこから出させてみせるというのが阿弥陀仏の本願です。