安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

死の恐怖の根源と無明の闇は全く同一ですか?言葉の難しさ(maryさんのコメントより)

maryさんからいただいた質問にお答えします。有り難うございました。

(maryさんのコメントより抜粋)
☆「死んだらどうなるのだろう」と、考えて「はっきりしないなぁ」という心と、無明の闇と親鸞聖人が言われる後生暗い心は、言葉は同じでも違うものだということを知ってください。

 「はっきりしないなぁ」なのですが、これが私には死の恐怖の根源だと感じるのです。だから後生はっきり明るい身になりたいのです。
このはっきりしない心と、無明の闇は違うとのことですが、違い目を教えてください。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090122/1232626621#c1232631766

「死の恐怖はどこからくるか?」という点については、「死んでいく未来がハッキリしない」ということに違いはありません。
ハッキリしないところに、一日一日進んでいくのですから、これほど不安なことはありません。
そこで「無明の闇」というのは、阿弥陀仏が私たちの苦悩の根源としてそれを破ってみせると誓われているものです。

難思の弘誓は難度の海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。(教行信証総序)

この無明の闇を、蓮如上人は「雑行雑修自力の心」とも言われています。
「死の恐怖の元」と「雑行雑修自力の心」とは同じでしょうか?

無明の闇も、雑行雑修自力の心も、阿弥陀仏の本願を疑う心です。それを親鸞聖人は疑情ともいわれています。

真の知識にあうことは
かたきが中になおかたし
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき(高僧和讃)

世々生々、流転輪廻を重ねてきたその原因は、疑情一つであると親鸞聖人はいわれています。
疑情も、無明の闇も、雑行雑修自力の心も、言葉で表そうとされるものがらは一つなのですが、言葉で表すと、その言葉の持つ意味のあらわす範囲は、それぞれ異なってきます。
「疑情(疑う心)」と「無明の闇(明かりがない、闇)」では同じようには思えません。そこが言葉の難しいところです。
では、疑情一つでなにが結果としておきるのかといいますと、阿弥陀仏の救いにあえないということです。信心決定の身になれないということです。

そういうことからいいますと、信心決定の身になっていないから、阿弥陀仏に救われていないから、後生がくらくなり、結果として死が恐ろしいという心もおきるのです。
maryさんの言葉では、「信心決定の身になっていないから」がないまま、後生が暗いからとなっています。
因果関係からいいますと、死が恐ろしいのは、信心決定の身になっていないからです。ただ今阿弥陀仏に救われていないからなのです。

その疑情といわれるもの、自力の心も、阿弥陀仏の救いに向かって出てくるものであり、自覚されるものです。

(フーテンの虎さんのコメントより)
阿弥陀仏に現在ただ今救われると真剣に向かえば、自力の心が知らされてくるといわれますが、なかなか知らされてきません。求め方が悪いのでしょうか。
自分がきずかないだけでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090122/1232626621#c1232773851

フーテンの虎さんコメント有り難うございました。
求め方が悪いかどうかは、阿弥陀仏の願力によって起こされる心ですから、結果として阿弥陀仏に救われたときすべてがわかると思います。
フーテンの虎さんが、現在ただ今救われようという心になられたということは大変素晴らしいことです。尊いことだと、大変うれしく思います。
弥陀の救いは現在ただ今です。そこで安心はされないと思いますが、もう一歩踏み込んで、真実信心を求め、獲得する身になっていただきたいと思います。
またご質問お待ちしております。