安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心決定したい心」はどこにあるか?(モグタンさんのコメントより)

モグタンさんよりコメントをいただきました。有り難うございました。

信心決定したいといいつつ、○○だから、とか、○○のために、のような気持ちが間に入って、信心決定そのものを望んでいないようにも思えてきました。

聴聞をしていても、「自分と関係のないけど何かすごいもの」を眺めているかのような気持ちです。

救われるには、こうなるだろう、ああしないといけないだろう、と思っていた心を改めて感じます。

でも、この心が変化していくとも思えないです・・。
(モグタンさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090121/1232540727#c1232947396

非常にまじめな質問だと思います。よくご自分の心をみておられると拝察します。
煩悩具足の凡夫といわれる私たちが、「価値のあるもの」と感じられることは、やはり煩悩がよろこぶことなのです。お金や、名誉、異性を求めてそれが満たされるばかりが煩悩ではありません。

仏法を聞き求め、信心決定を目指す人は、また別の形で煩悩がよろこぶことにとらわれてしまうのです。
「信心決定した尊い人といわれたい」「すばらしい仏法者といわれたい」など、ありがたい心を育てて、よりありがたい心になろうとします。しかし、それは真実信心ではありません。
親鸞聖人が、言われているとおりです。

悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快まず。恥ずべし傷むべし。(教行信証信巻)

悲しいことだ、この親鸞は、愛欲の心が広い海ほどありそこに沈みきっている者であり、人からよく思われたい名誉欲と、少しでも得をしたいという利益欲は大きな山ほどありそれに迷惑している。その上、弥陀に救われて、正定聚の数に入ったことも喜ぶ心もないし、死ねば弥陀の浄土にいって仏の証を開くことができるのに、そこへ近づくことを喜ぶ心もない。恥ずかしいことだ、痛ましいことだ。
弥陀に救われた親鸞聖人が言われているように、弥陀に救われても、煩悩具足の私の心から言えば、喜ぶ心はありません。信心決定したことを喜ぶ心もない人が、どうして信心決定しようという心が起きるでしょうか。まったく、阿弥陀仏の願力のはたらきによるのです。

もちろんこういう説明は、信心決定された親鸞聖人の立場からいわれたことなので、本当のことである一方、いまだ弥陀に救われていない人が「どうせ私たちには信心決定しようという心はないのだから」と言うと種々語弊が生じます。
「信心決定しようという心がない」ということと、「信心決定しなくてもよい」ということは違うのです。それでも問題ないのなら、阿弥陀仏は五劫思惟のご苦労もされませんし、兆載永劫の修行もされませんでした。加えて、現在働いてはおられません。

煩悩を本心というのなら、その本心からは信心決定をのぞむ心はないでしょう。ないからこそ、南無阿弥陀仏をはねつけているのであり、阿弥陀仏の本願に反するのです。はねつけているから、阿弥陀仏の大慈悲が徹底しないのです。
自分の心に従うのではなく、弥陀の本願に従ってください

心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。(教行信証後序)

親鸞聖人が、心を弘誓の仏地にたてよといわれた御心は、どこに自分の心を向けていくのかと言うことです。煩悩をいくら探し回っても、そのなかには真実信心をもとめる気持ちはでてきません。弘誓の仏地にむかって、ただ今の救いを求めてください。

お聖教のお言葉も知らないといけないと思いますが、もっともっと細かく砕いた言葉も知りたいのです。

こう思う心は間違っているのでしょうか?
(モグタンさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090121/1232540727#c1232947396

教えに基づいて、教えに反しない内容ならば、それを「聞きたい」と思うこと自体が悪いのではありません。我が身の求道が問題となったなら、それを聞きたい心が出てくるのは当然だからです。
このブログも基本的に「問答(沙汰)」の形式をとっていますので、飛び入りでどなたがコメントしてくださってもかまいません。教義的に問題がないものならば、私もとくにどうこう言うつもりはありません。

ただ、「そういう体験談を聞けば助かるだろう」と思うのは間違いです。あくまでも助けるのは、阿弥陀仏であり、その力は南無阿弥陀仏の名号にあるのですから。
蓮如上人も「信心の沙汰をせよ」とは、「自分の心を打ち出せ」といわれているのであって、「体験談を聞け」といわれているのではありません。「信心決定せよ」といわれているのです。沙汰の場で、自分の心を打ち出しあい、その人の言葉で法や体験が語られること自体までが悪いのなら、蓮如上人は信心の沙汰をせよとはいわれません。
それが悪いとなれば、真実信心があり、よほどの教学のある人でなければ、法を語ることはできなくなってしまいます。それでは真宗繁盛ということは無くなってしまいます。
目的はあくまでも信心決定です。

自分の心の底を打ち明けるのは勇気がいるし、心を深くみていくことに疲れてしまうこともあるのですが、投げ出さないでがんばっていきたいと思います。
(モグタンさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090121/1232540727#c1232947396

モグタンさんにも、阿弥陀仏の光明はかかっています。現在ただ今の弥陀の救いにあってください。