安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

一念の信心とはなにがわかるのか(S会会員さんのコメント)

S会会員さんよりコメントを頂きました。
有り難うございました。エントリーが遅くなり申し訳ございません。

獲信した一念に、なんでもかんでもすぐに一瞬でスッキリハッ
キリ、一切経が脳にダウンロードされるがごとくわかるという
ことではないのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090612/1244818189

これに関して質問があります、信心決定したといわれる人の体験等(K会とか)を読んでみると、段々自分の罪悪が知らされてきた(阿弥陀仏に救われたあとに)とか書いてありますが、(一念の信心はイコール二種深心であり、ずっと変わらないのではないかとおもっていました)
一念で真実信心を頂いてはいるが、その他力の信心を自分が認識するのにその人の知恵や才覚で時間がかかったりするのでしょうか?
それとも阿弥陀仏への疑情だけ先に晴れて、後で真実の真実の自己に対する疑いだけ段々晴れてくるということがあるのでしょうか?
又、往生間違いなしの身といっても、極楽が見えたりするわけではないでしょうから(どこへなりとも弥陀まかせっていうんですかね?)厳密にいうと後生は暗い(わからない)といってもいいんでしょうか?そうだとすると浄土で仏覚をうるため修行するかもしれないと考える余地はありますか。(聖人以前の浄土思想によるとそうらしいので)(S会会員さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090612/1244818189#c1245282430

回答します。
一念の信心とは、二種深信のことです。二種深信とは、機法二種一具の深信です。機(私)と法(本願)の二つについて深信(疑いなく知らされる)というものです。
深信とは、機と法について「疑心あること無し」と深信することです。この「疑心あること無し」が、一念の信心です。

『一念』と言うは、信心二心無きが故に『一念』と曰う(教行信証信巻)

この二心無いというのが「疑心あること無し」といわれる部分です。
一念の信心については、親鸞聖人は別の所では、

それ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。『一念』とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(教行信証信巻)

この信楽とは、「疑心あること無し」の信心です。この疑心有ること無し(信心二心無き)の信心が、一念の信心であり、時剋の極促で私たちに与えられる信心なのです。

この一念とは、信心のことです。阿弥陀仏が私たちに南無阿弥陀仏を与える信心の方からいわれる言い方です。私の方で「今、頂いた」とその「瞬間」が分かるとすれば、頂いたその時に煩悩が変化したということになります。

煩悩が変化するならば、煩悩具足の凡夫をそのまま救うという本願にはなりません。

たとえて言いますと、一休と蓮如上人が阿弥陀仏の慈悲についてやりとりされた時に詠まれたといわれるお歌に、以下のものがあると聞いています。

阿弥陀にはへだつるこころはなけれども 蓋ある水に月はやどらじ(蓮如上人)

蓋というのは、疑いの心であり、自力の心です。自力の心が蓋をしているので、蓋がある間は水に月が宿らない。水とは私たちの煩悩以外にない心(凡心)をいいます。水に月が宿るというのは、信心決定の姿です。凡心に、月が映ると、仏凡一体となります。

しかし、水に月が映ったからといって、水面が波立つわけでもありません。水の味や温度が変わるわけでもありません。何も変わらないのです。

煩悩具足の私たちが「分かる」というのは、水面の波であったり、水の味や温度の変化なのです。水面に月が映るというのは、そういう変化ではありませんから、一般に「わかる」というものとは違います。

何が違うかと言えば「蓋がない」(疑心有ること無し)であり、「水に月がやどる」という違いです。
真実信心とは、煩悩は何も変わらないままで、それが往生のさわりにならないということです。
煩悩は何も変化しませんが、出離の縁あることない自分に疑心あることなしと深信させられます。同時に、煩悩は変わらないまま、往生定まることに疑心有ること無しと深信させられるのが信心です。

そのことからS会会員さんの質問に答えますと

一念で真実信心を頂いてはいるが、その他力の信心を自分が認識するのにその人の知恵や才覚で時間がかかったりするのでしょうか?(S会会員さんのコメント)

信心を頂くということは、二種深信が立つということです。疑心有ること無しはわかりますが、それ以外のこと(経典や論釈に詳しく解説されていること)は聴聞や教学をして知らされていくものです。

それとも阿弥陀仏への疑情だけ先に晴れて、後で真実の真実の自己に対する疑いだけ段々晴れてくるということがあるのでしょうか?(同上)

疑情とは、機と法に対するものですから、晴れるときは同時に晴れます。

又、往生間違いなしの身といっても、極楽が見えたりするわけではないでしょうから(どこへなりとも弥陀まかせっていうんですかね?)厳密にいうと後生は暗い(わからない)といってもいいんでしょうか?そうだとすると浄土で仏覚をうるため修行するかもしれないと考える余地はありますか。(同上)

「後生がくらい」という言葉の定義が曖昧ですから、「不安である」ということだとすれば違います。
「どんな心が起きても、どんな姿が見えても往生にさわりなし」という意味では、後生は明るいのです。
浄土で仏のさとりを得るために修行というのは、言われるとおり親鸞聖人以前の仏教には言われたことですが、親鸞聖人は厳然と現在正定聚になれるのだと教えていかれました。

救われたら、雷が落ちるような「もの凄い事件」が起きるというのは一念覚知といわれる間違った信心です。
疑いや疑情や自力といっても、苦しんだことの無い人にとっては、雲をつかむような話かもしれませんが、自力の心が晴れれば、自力がないのはわかります。
しかし、真実信心の内容そのものは、「無上甚深の功徳利益の広大なること更にきわまりなし」と蓮如上人がいわれるように、人間の知恵で全部はかれるものではありません。
「功徳の大宝海」と親鸞聖人がいわれるように、あまりに広い海は、どれだけ広さがあり、どんな形をしているのかは、私たちにははかりがたいものなのです。
教行信証六巻をあらわされても「仏意はかりがたし」「不可称不可説不可思議」といわれたという点で、一瞬で脳にダウンロードされるようになんでもかんでもわかるものではないと以前のエントリーには書きました。

救われたら分かるの「わかる」は、「疑心有ること無し」がわかるのです。
救われるのはただ今のことです。何か分からなかったことが分かったのが阿弥陀仏の救いではありません。

ただ今阿弥陀仏に救われる事があります。ただ今弥陀に救われて下さい。