安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

死への恐怖よりも、弥陀の浄土にうまれたい心が先(maryさんのコメントより)

maryさんより、コメントで前回のエントリーの質問について答えをいただきました。返信が遅くなりすみません。

 私には小さい頃から死への恐れがずっとあって、口に出して言っていました。ある人から「なぜそんなに死がこわいの?」と聞かれ、初めて なぜこわいのかと考えた時、死後がどうなるかわからないからだと(わからないところに行くからだと)自覚したからです。信心決定すればいつ死んでも極楽参り間違いなしとはっきりするとお聞きし、合格通知を得た受験生のように、安心して生きて行ける!そんな身になりたい、と思ったのです。変わらない「死にたくない気持ち」とは、愛する人たちとの別れや、肉体の痛みがつらいと思うからです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090122/1232626621#c1232631766

これについて目的はこの世の安心ではありません。それは、結果としてそうなるのであって、あくまで目的は弥陀の浄土に往生するということなのです。

南無阿弥陀仏をとなうれば
この世の利益きわもなし
流転輪廻のつみきえて
定業中夭のぞこりぬ(現世利益和讃)

親鸞聖人のご和讃で言いますと、「この世の利益きわもなし」も「定業中夭のぞこりぬ」も、「南無阿弥陀仏をとなうれば」という身になった結果です。
ここでいう「南無阿弥陀仏をとなうれば」というのは、信心決定して御恩報謝の念仏を称える身になれば、この世は正定聚の数に入り、死ねば弥陀の浄土に生まれる身になればということです。
「この世の利益」を求めるのが目的ではないのです。「南無阿弥陀仏をとなうる身になることが目的です。
「どこへいくかわからないから安心したい」という心は誰しも持っています。一歩仏法を聞き求め、信仰を求める気持ちになられたということは尊いことです、本当にありがたいことなのです。だから、そこでさらに一歩踏み込んで、「弥陀の浄土に生まれたい、ただ今生まれる身になりたい」と心を目的地にはっきり定めて求めてもらいたいと思います。それが真実信心を求めると言うことなのです。

ほかにいただいた質問もありますが、取り急ぎ一つお答えします。
本日中には、ほかのものもお答えしますのでよろしくお願いします。