安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

死が怖い、はっきりしないとは?(maryさんのコメントより)

maryさんよりコメントをいただきました。有り難うございました。

死が怖いのは、後生がはっきりしない(しかも暗い)からだと思っています。後生明るい身となれば、死にたくない気持ち(愛別離苦や体の痛み)は変わらなくても、死への恐怖心はなくなるように思っているのですが・・・。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090120/1232460957#c1232547495

人間に限らず生き物は、死を恐れています。後生がはっきりしないのが原因だと言われていますが、「死へ恐怖心」とは一体どういうものなのでしょうか。

これはmaryさんに質問ですが、「死にたくない気持ち」は変わらないが、死への恐怖心はなくなると言われますが、どのように違うと思っておられるでしょうか?
「後生がはっきりしない」といいましても、信心決定すれば目の前に、映画でもみるように極楽浄土が目に映るようになるわけではありません。

なんとか平生弥陀に救われたいという心の起こされた人が、信心決定しないまま後生がきたら大変だと、後生がくらくなるのです。
「死んだらどうなるのだろう」と、考えて「はっきりしないなぁ」という心と、無明の闇と親鸞聖人が言われる後生暗い心は、言葉は同じでも違うものだということを知ってください。

それから、つらい時は煩悩で苦しんでいる、というのがよくわかりません。自因自果と心に言い聞かせ、苦しみに耐えることで精いっぱいで何も考えれない感じです。詳しく教えていただきたいです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090120/1232460957#c1232547495

いろいろな苦しみ悩みの波が押し寄せて、それに翻弄されているというところではないかと思います。
確かに今おきている種々の苦しみは、自分の悪業が結果として表れたと言うことには他なりませんが、しかし、それと信心決定できるかどうかは、過去の行為が関係するのではありません。もし、過去の行為が関係するのなら自力が間に合うと言うことになってしまいます。
「悪業をつくってきたから」信心決定の身になれないのではありません。
「努力がたりないから」信心決定の身になれないのではありません。
あえていうなら、「無明の闇が破れてないから」信心決定の身になれないのです。
目の前に起きているのは、いわば煩悩で作った業の結果でありますから、煩悩で苦しんでいると書きました。

また、相対の幸福は常に努力が必要で、心も体も本当に休まる時は死ぬまでなく、輪廻転生は永遠の苦しみだと思います。
だからもう迷いの打ち止めをしたいのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090120/1232460957#c1232547495

そういう現在の苦しみ(相対の幸福がえられない)ところから、なんとか抜け出たいという心は、いわゆる相対の幸福を必死で求める苦労ですから、どこまでもいってもこれで安心したと言うことはありません。
もちろん、そういう苦しみはないに越したことはありませんし、体調もよいほうがいいですし、気分も明るい方がいいです、生活も安定している方がいいにはちがいありません。
そういう心が忙しいときには、目的が見失われてしまいがちです。ただでさえ、現在弥陀に救われ、信心決定の身になろうという目的は、「そのために真剣になろう」という手段と混同しがちだということは以前から書いてきたとおりです。
この世に生まれてきたのは、この世の苦しみを解決するためではありません。また、この世の苦しみを解決するための手段として、弥陀の救いがあるのではありません。
流転輪廻を重ねるのも、煩悩で悪業を作るからではないのだと親鸞聖人は、正信偈にいわれています。

還来生死輪転家
決以疑情為所止(正信偈)

生死輪転の家に還来するとは、流転輪廻を重ねている私たちの迷いの姿です。その原因は、「決するに」疑情(無明の闇)一つであると、断言しておられます。

仏法を聞く目的は、この疑情を阿弥陀仏の本願力によって破っていただき、流転輪廻を離れて、浄土往生の身になることなのです。
現在の苦しみがどうしても問題になると思います、それを縁としてその底にある、自らを迷わせる自力の心を知っていただきたいと思います。