安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

不如実修行とはなんでしょうか?

不如実修行とはなんでしょうか?(頂いた質問)

不如実修行とは、曇鸞大師の往生論註に書かれている言葉です。それを高僧和讃から紹介します。

(48)
不如実修行といへること
 鸞師釈してのたまはく
 一者信心あつからず
 若存若亡するゆゑに(高僧和讃)

このご和讃では、不如実修行のところについて、

【左訓】「をしへのごとくならずといふこころなり」

と左訓されています。
念仏が、如実の称名になっていないこと、教えのとおりになっていないことを、「不如実修行」と言われています。

そのことは、曇鸞大師の往生論註に出てくる言葉です。

しかるに名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるものあり。なんとなれば、如実に修行せず、名義と相応せざるによるがゆゑなり(往生論註・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)聖典P103)

http://goo.gl/Um7je

称名念仏していても、「無明なほありて所願を満てざるものあり」となるのはなぜか?ということについて、「如実に修行せず(不如実修行)」であるからだと言われています。

その理由を、その後に、二つ事を知らないからで有り、三不信だからだといわれています。これを二不知三不信といいます。

それについては、曇鸞大師がかかれたことを、道綽禅師も安楽集にかかれています。

答へていはく、如実修行せず、名義と相応せざるによるがゆゑなり。 所以はいかん。 いはく、如来はこれ実相身、これ為物身なりと知らず。
また三種の不相応あり。 一には信心淳からず、存ぜるがごとく亡ぜるがごとくなるがゆゑなり。 二には信心一ならず、いはく、決定なきがゆゑなり。 三には信心相続せず、いはく、余念間つるがゆゑなり。 たがひにあひ収摂す。
もしよく相続すればすなはちこれ一心なり。 ただよく一心なれば、すなはちこれ淳心なり。 この三心を具してもし生ぜずといはば、この処あることなからん。(安楽集)

http://goo.gl/r82pS

二つのことを知らないというのが、「如来はこれ実相身、これ為物身なりと知らず」です。阿弥陀如来が、自利利他の徳をもたれた方であることを知らないと言うことです。

この二つ事を知らないという二不知は、行の内容についていわれたものです。南無阿弥陀仏の称名は、自利利他の阿弥陀如来の徳そのものであることを知らないと言うことです。よく親鸞会では「念仏は報謝のみ」のような話をしますが、それは間違いです。称名という行そのものが、私たちの無明を破って往生の願いを満たして下さるのです。

次に、三不信がいわれています。これは、信心についていわれたものです。このように二つ並べて書かれているのは、先の二不知の内容を開かれたのが、三不信だからです。この行と信は不二一体といって二つの別々のものではありません。

まとめますと、如実修行といわれる称名は、信を必ず具わったものであるということをいわれた、信を伴わないものは不如実修行となるといわれたものです。

そのため、曇鸞大師は、先に出したご文の結びに

このゆゑに論主(天親)、「我一心」と建言す。

と書かれています。

そのことを最初に出したご和讃の最後には、

(52)
決定の信をえざるゆゑ
 信心不淳とのべたまふ
 如実修行相応は
 信心ひとつにさだめたり(高僧和讃・曇鸞讃)

といわれています。

南無阿弥陀仏は、私を救う為に阿弥陀仏が選び取られた行です。この南無阿弥陀仏一つで浄土往生させていただけるものです。信心と言っても、この南無阿弥陀仏を離れて独立してあるものではありません。

必ずただ今救うの南無阿弥陀仏を疑い無く聞いて、南無弥陀仏と念仏するものは必ず浄土往生させるという本願です。