安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「悪を恐れるような人」になるのが目的ではありません(モグタンさんの質問より)

モグタンさんよりいただいた質問の続きについて回答をいたします。

いかなる善根・功徳をも修したい、と言う気持ちにもなりません。

昨日一日を考えてみても、善をしようと思ってした善などあっただろうか、と思います。

私は何がわかってなくて救いを求められないのでしょうか?

機の部分なのかと悪について考えてみても、煩悩で作る悪を恐れる気持ちはあるのですが、それは後生が気にかかっているのではなく、今生で受ける悪果が怖いからです。
怖いと言いつつ、止めることもできません。

五逆、法謗となると、実際それを悪として恐れる気持ちさえありません。

ここで「善をしようと思って」とありますが、それは何のためにする善なのでしょうか?
何をするときにも大事なことは目的です。善をするのは、善果を求めてのことだと思いますが、その「善果」とは、モグタンさんにとってはどういうことでしょうか?

質問について、回答をしてきましたが、この部分は不明な部分があるので、それについてモグタンさんの回答をいただいてからお答えいたします。

「何がわかってなくて救いを求められないのでしょうか?」という点についても、その答えは、私が今質問した部分と深い関係があります。
親鸞聖人の教えを聞き求めている目的は何でしょうか?

モグタンさんは、いただいたメールの中で「信心決定したい」といわれています。そういう点では、目的ははっきりしていると思います。そこで、具体的にどうするか?という点において、信心決定とはいかなるものか?という点が、はっきりしていないのだと思います。
「わかったならそれはもう助かっているのだ」ということとはまた違うのです。
「わかる」とか「わからない」とか「本当のはわかってない」とか、「頭ではわかるのですが」とかいう言葉をよく耳にしますが、「体験してない(まだ弥陀に救われていない)」ということと、「わからない」と言うことは、イコールではありません。
もし、完全なイコール関係ならば、体験するまで何一つもわからないということになります。何にもわからないのならば、なぜ「連れが大事、教えが大事」といわれるのでしょうか。
「合点ゆかずば合点ゆくまで聞け」といわれるのでしょうか。

次に、「煩悩で作る悪は怖いけれども、後生が気にかかるのではない」ということでしたが、信心決定を妨げているものは「欲や怒りといったような煩悩」ではありません。あくまでも「雑行雑修自力の心」です。

もし煩悩が妨げになっているのなら、信心決定した人は煩悩が減ると言うことになります。しかし、信心決定する前も、救われる一念も、救われた後も、煩悩は減りもしなければ、無くなると言うこともありません。反対に増えると言うこともありません。

罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきが故に、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故に(歎異鈔1章)

と歎異鈔にあるように、煩悩熾盛の衆生、煩悩が燃えさかっている者、減りもしない煩悩を抱えている者を助けるための弥陀の本願です。弥陀に救われる一念に、私たちの行いは関係ありません。関係あるとすれば、自力がまにあうということになります。
善も悪も、「弥陀に救われる一念」にはまったく関係がありません。
関係するのは、「雑行雑修自力の心」です。だから、蓮如上人は、御文章のいたるところで「雑行をすてよ」「自力をふりすてよ」と重ねて言われているのです。

五逆罪も謗法罪も、恐ろしい罪に違いないのですが、それを「恐ろしいと感じられる者」になるのではありません。「罪を罪と感じないもの」だから、「煩悩具足の凡夫」といわれるのであり、三世の諸仏も見捨てて逃げてしまったのです。

そんなものを助ける仏は阿弥陀如来しかおられません。
「罪を恐ろしいと感じる者になる」ことが目的ではありません。あくまで信心決定することが目的なのです。

もう少し質問が残っていますが、明日続けて回答エントリーをいたします。