安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「知らされる姿」とはどんなものか?(maryさんのコメントより)

maryさんより頂いたコメントの質問に、まだ回答していない部分について回答します。
韋提希の知らされた実機ということについて。

 「諸善によって救われるのではない」ということは、頭では分かります。
ただ、「19願を進まなければ18願へは出れない」と言われ、「観経のイダイケの様に真剣に善を実行しなければ、実機はわからない」「諸善万行は、往生浄土の方便の善(宿善)になる」「救いは宿善まかせ」などどお聞きして、善が間に合って救われるのではないけれど、阿弥陀仏に救われるには、諸善を真剣にしないといけないと、言われているように感じます。
(maryさん 2009/02/03 のコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090203/1233621792#c1233663506

実機というのは、実際の機ざまということですが。信前信後かわらない姿です。
観無量寿経に出てくる韋提希夫人は、お釈迦様の導きによって、阿弥陀仏の浄土に生まれたいという心をおこさせられ、定善散善をお釈迦様に勧められています。

浄業機彰れて、釈迦韋提をして安養を選ばしめたまえり。(教行信証)

と親鸞聖人言われているとおりです。
私たちの、弥陀に救われる前も救われた後も変わらない姿というのは、煩悩具足の凡夫といわれるものです。欲や怒りや愚痴の心は、救われる前も後も変わりません。

しかし、お釈迦様が善を勧められるのは、阿弥陀仏の18願の救いの世界に出させると言うことが前提であり、弥陀の浄土に生まれたいという心の起きた韋提希に勧められているのです。「善をしたら救われるぞ」というものではありません。

釈迦は要門ひらきつつ
定散諸機をこしらえて
正雑二行方便し
ひとえに専修をすすめしむ(高僧和讃)

お釈迦様が阿弥陀仏の19願を明らかにされた御心を教えられた親鸞聖人のお言葉です。
定散諸機とは、定善の機、散善の機ですが、いずれも、阿弥陀仏の浄土に生まれたいという心が起きた人のことです。現在ただ今弥陀に救われようという心のおきた人です。

救われると知らされる姿は「煩悩具足の凡夫」なのですが、阿弥陀仏の救いという角度から説明しますと、「煩悩具足の凡夫と知らされたら救われる」のでしょうか?
これは、前回の「地獄一定と知らされたら救われるのではない」と説明したことと同じ事です。
「阿弥陀仏に救われたら煩悩具足の凡夫と知らされる」のです。

説明するとどうしても前後があり、時間的にあわないところも出ますが、敢えて説明しますと。
弥陀に救われるには、あくまでも雑行雑修自力の心が廃るかどうかが問題です。煩悩具足の凡夫と知らされたかどうかは、救われた後の話です。
弥陀の18願のお言葉で言いますと「五逆誹謗正法(以下、逆謗)」と知らされることが救いの条件ではないのです。救われたら逆謗と知らされるのです。
では、逆謗であるということと、雑行雑修自力の心とはどういう関係になるのかという疑問がでると思いますが、逆謗が阿弥陀仏の本願に向かったときに出てくるのが、自力の心なのです。逆謗だから自力の心が出てくるのです。その自力の心が弥陀の救いを妨げているのですが、自力の心が廃ったということは、逆謗が逆謗でなくなるということではありません。
よって、現在ただ今弥陀の浄土に生まれたいという心が起き、真剣に求道する人が見えてくるもの、知らされてくるのは、逆謗が弥陀の本願に向いたときに出てくる自力の心なのです。それが見えてくると、ここ一つ明らかになりたいと、問題になってきます。
その自力の心が廃ると、阿弥陀仏に救われ信心決定の身になります。「願に相応」しますから、本願の通り「唯除五逆誹謗正法」の我が身であったとハッキリ願力によって知らされるのです。

親鸞聖人が「定散諸機」といわれているのも、「現在ただ今弥陀に救われたいという心のおきた人」が、問題になるのは自力の心ですから、知らされてくる姿は自力の心なのです。

時間的に前後がありますが、説明するとこのようになりますが、「自力の心を知る」のが目的ではありません、「現在ただ今弥陀に救われる」のが目的なのだと言うことを、書いておきます。ここは、前後を間違えやすいところなのです。

フーテンの虎さん、コメント有り難うございました。
お尋ねの件は、明日エントリーで書きますのでよろしくお願いします。