安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

向き合う自己とは、弥陀の本願に向かった上でのことです(BHさんのコメントより)

2009-2-17のエントリーで

生活上の善悪を、善をしなくていいとか、悪は恐れる必要はないとか、いわれたものではありません。
煩悩や善悪を問題にしないというのは、阿弥陀仏に救われるかどうかは、雑行雑修自力の心が廃ったかどうかで決まるからです。真実信心一つです。善が足りないからでも、悪が多いからでもないのです。
(略)
現在ただ今の弥陀の救いには、煩悩は関係ありません。関係づけるのは自力の心です。
煩悩は減りませんが、弥陀の救いとは関係がありません(メールで頂い - 安心問答(浄土真宗の信心について))

と書きました。

それに対してBHさんよりコメントを頂きました。

煩悩を抑えなくてよいという考えには納得できませんね。

外に賢善精進の相を現じて内に虚仮を抱くことを得ざれ(善導大師)

煩悩まるだしでは善導大師の教えに反します。
それとも善導大師が浄土真宗・阿弥陀仏の救いに反することを教えたのですか?
(BHさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090217/1234829231#c1234925847

善導大師のお言葉は、観無量寿経の御心を明らかにされたものです。
19願の願意から言われたもので、私がエントリーで書いたものは、阿弥陀仏の18願(ただ今の救い)から書いたものです。親鸞聖人は、この善導大師のお言葉を

外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり。(親鸞聖人)

と、教行信証には読み替えられています。その通りに私は書いたのであって、善導大師を否定したわけではありません。

求道とは自己を見つめていく事です。
煩悩はどうにもなりません、関係ありませんとふんぞりかえっているうちは、
自分の煩悩に目が向く事もなければ、煩悩具足の自己が知らされることもないでしょうね。
外に賢善精進しようと努力し、煩悩を抑えようと努力してみて始めて、
抑えても抑えても吹き上がってくる煩悩に泣かずにおれず、
こんな自分がどうなるものかと求めずにはおれないのです。
そして煩悩から離れきれない自分であったと知らされた時、
自力がすたるのです。
(BHさんのコメント2)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090217/1234829231#c1234965041

誤解があったのならお詫びいたします。
このBHさんのコメントから、一つ大事なことだと思い回答を致します。
これについては、ひろみさんからもコメントを頂いておりますのでそちらも、ご覧ください。
ひろみさんのコメント

煩悩と弥陀の救いは関係ないということは、煩悩と自力の心も関係ないと言うことです。
BHさんのコメントの文面からすると
「煩悩から離れきれない自分であったと知らされたとき、自力がすたる」と書かれています。
これは、煩悩具足の自己を見つめることと、自力が廃ることが関係あるように思われての事だと思います。文章で書くと前後はありますが、自力が廃り、弥陀の救われたときに、煩悩から離れきれない自分であったと知らされるのです。
煩悩と自力が関係あると思うから、
煩悩を抑えようと努力して→煩悩が抑えられない自分と知らされ→自力が廃って救われる
というように弥陀の救いを考えておられるようですが、全く違います。
もちろん、弥陀の本願はどんな悪人でも助けるからと言って、悪に誇って良いとか、「煩悩丸出し」でよいと言っているのではありません。
しかし、「どんな者でも救う」というのは、BHさんが嫌われるような者でも救うことができると言うことなのです。
「そんなものが助かるのか?」というのは、阿弥陀仏の救いに罪悪の多少で、煩悩が抑えられたか、その努力をしたかということで条件をつけているのです。

おほよそ大信海を案ずれば、貴賎緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず(教行信証)

阿弥陀仏の救いは、身分が高い低い、老若男女の差別も無く、作った罪の多いか少ないかを問題にせず、修行の期間を問題にもしないといわれています。
煩悩を抑えると言う言葉を使えば、どれだけ煩悩を抑えようと努力したか、どれだけ長期間煩悩と向き合ったかを問題にしないと言うことです。

それは、真実信心を獲得するかしなかということ、自力が廃るかどうかと言うことと、煩悩は全く関係がないからです。
蓮如上人も御文章に言われているとおりです。

先ず、当流の安心の趣は、あながちにわが心の悪きをも、また妄念・妄執のこころの起るをも、止めよと云うにも非ず。ただ商をもし、奉公をもせよ、猟漁をもせよ、「かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどいぬる我等如きのいたずらものを、助けんと誓いまします弥陀如来の本願にてましますぞ」と深く信じて、一心にふたごころなく弥陀一仏の悲願にすがりて、「助けましませ」と思うこころの一念の信まことなれば、必ず如来の御たすけにあずかるものなり。(御文章1帖目3通・猟漁)

浄土真宗の真実信心とは、自分の心の悪いことや、妄念や執着の心が起きることを、止めなさいということではありません。どんな仕事をしても問題はない、「このような悪ばかりを作っている私たちのような者を、助ける弥陀の本願であった」真実信心を獲得し、一心になり、自力の心を振り捨てて、阿弥陀仏の本願まことであったという一念の信心を決定すれば必ず阿弥陀如来の救いにあうのだ。といわれています。

では、自力の心はどこから出てくるのかという疑問が出る人もあるとおもいますので、最後にお答えします。
もちろん、善をしなくて良い、悪に誇ればよいというのは間違いですが、善をすれば、悪を慎んだほうが早く助かるだろうとおもう「心」が自力の心です。
煩悩に向き合って出てくるのではありません。現在ただ今の弥陀の救いに向かったときに出てくるの自力の心なのです。

弥陀の本願は、「煩悩をすてよ」ではありません、「雑行雑修自力の心を棄てよ」なのです。
繰り返しますが、これは、「現在ただ今の弥陀の救いにあう」ということについてのことなのです。
努力をするのが悪いのではありません。方向が間違っては努力も実らないのです。
問題にすべきは、「弥陀に救われるかどうか」であって「煩悩が抑えられたか、抑えようと努力をしたか」ではないのです。
「自己に向き合った」ではなく「弥陀に向き合ったか」なのです。
浄土真宗で自己を見つめるというのは、あくまでも弥陀の本願という鏡に向き合ったときに映る自己の姿を見つめよと言うことなのです。