安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

煩悩は減りませんが、弥陀の救いとは関係がありません(メールで頂いた質問)

匿名さんから頂いた質問メールですが、大事な質問と思い、一部抜粋して回答致します。

信前でも煩悩が(執着の心)減る、というような話でした
(略)
(信後はなくなってゆく)
(匿名さんからのメールより)

こういう話を聞いたのですがどうでしょうか?というお尋ねでした。
煩悩が減るとか、増えるとかということは、浄土真宗では教えられないことです。
そこに「信前でも」とか、「信後は」という言葉を使うと、阿弥陀仏の救いと煩悩が関係あると言うことになってしまいます。阿弥陀仏の救いと、煩悩は全く関係がありません。

不断煩悩得涅槃(親鸞聖人・正信偈)

煩悩を断ぜずして涅槃を得ると、親鸞聖人は教えられています。
欲や怒りや愚痴と言った煩悩は、全く変わらない、減りもしないまま、阿弥陀仏に救われると言われています。

また死ぬまで、減りもしないし無くならないのが煩悩です。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。(一念多念証文)

私たち凡夫というのは、煩悩が身にみちみちて、欲の心も多く、怒りや腹を立てたり、人をねたむ心は多く、休まるまもなく、臨終まで止まることもなく、消えることもなく、無くなることもないと言われています。

執着が減るというのは、仏法を聞いている人に、いわゆる「よい心」になるときがあるということを指して言っているのかもしれません。
阿弥陀仏の平等の救いを聞いて、人に平等に接しようとか、人や物に対する執着心が以前ほど起きなくなったとかいうこともあるでしょう。
良いことをしようという心がおきることがないといっているのではありません。
ただ、それを「信前は」とか「信後は」とか、弥陀の救いと関係づけると、煩悩は弥陀の救いと関係あると言うことになってしまいます。

煩悩が弥陀の一念の救いと関係無いと言うことは、煩悩で作る悪業も、善と思っているものも、信前信後の水際には全く関係がないということなのです。
そのことを歎異抄にはこのように書かれています。

弥陀の本願には老少・善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。その故は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきが故に、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故に、と云々。(歎異抄1章)

阿弥陀仏の本願の救いには、年齢、善人悪人の差別はない、真実信心一つで決まるのだと言うことを知らねばなりません。その理由は、罪悪が深くて重いもの、煩悩が死ぬまで、減りもしない無くもならない、休むこともない者を助けるための本願だからです。だから、弥陀の本願に救われ、真実信心を獲得するには、善をしたからということは条件にはなりません。南無阿弥陀仏にまさる善はないのですから。悪をしたから、弥陀に救われないということはありません。阿弥陀仏の本願で救えないほどの悪はこの世にないのだからということです。

この文章はいろいろと誤解も生じてきた文章です。
あくまでも、善悪を問題にしないというのは、真実信心獲得する一念の救いについてなのです。
それ以外のことで、生活上の善悪を、善をしなくていいとか、悪は恐れる必要はないとか、いわれたものではありません。

煩悩や善悪を問題にしないというのは、阿弥陀仏に救われるかどうかは、雑行雑修自力の心が廃ったかどうかで決まるからです。真実信心一つです。善が足りないからでも、悪が多いからでもないのです。

当流聖人の勧めまします安心というは、何のようもなく、まず我が身の浅ましき罪の深きことをばうち棄てて、もろもろの雑行・雑修の心をさしおきて、一心に「阿弥陀如来後生たすけたまえ」と、一念に深くたのみたてまつらん者をば、たとえば十人は十人、百人は百人ながら、皆もらさず助けたまうべし。(御文章5帖目18通)

このように蓮如上人も「もろもろの雑行・雑修の心をさしおきて」といわれています。
それも、煩悩執着がへったからさしおけるのではないということを、「何のようもなく」といわれているのです。

現在ただ今の弥陀の救いには、煩悩は関係ありません。関係づけるのは自力の心です。
現在ただ今の弥陀の救いにあうときが必ずあります。