安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「善をするかしないか」ではなく「どういう心か」が問題(モグタンさんのコメントより)

モグタンさんよりコメントをいただきました。

前回のエントリーの質問に対しての答えをいただきました。
質問は

「善をしようと思って」とありますが、それは何のためにする善なのでしょうか?

何をするときにも大事なことは目的です。善をするのは、善果を求めてのことだと思いますが、その「善果」とは、モグタンさんにとってはどういうことでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090118/1232278199

でした。

深く考えないで書いてしまいましたが何の為にする善か、求めている善果について問われると、改めてちょっと考えてしまいました。

私が日ごろ心がけているのは、積極的に善をするというより、悪をしない、という言葉の方が近い気がします。
約束を守ったり、仕事をきちんとしたり、人を悪く言わない、などです。
それはよい日常生活をおくりたい気持ちだと思います。
(略)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090118/1232278199#c1232330948

「よりよい日常生活を送りたい」との気持ちだとお答えいただきました。それはとても大事なことです。約束を守り、仕事をきちんとし、人の悪口を言わないなど、大事なことです。
信心決定という目的と、善をする自分のなかでの動機付けについて、お聞きしましたがそれについては、コメントの後半部分で回答していただいています。

一方後生に驚きが立った人は、善を求める気持ちが強くなって何かせずにおれない、という想像をしてしまっています。
後生助かる足しにしようという気持ちになって、どんなささいな善もしたいという気持ちになるのだろうと思っています。
常に意識的に、何かできそうな善はないかと探しているようなイメージなのです。
それに比べて自分は後生解決を意識して善をしてないなあと思って、そう書きました。
これで質問にお答えしていることになるでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090118/1232278199#c1232330948

これで質問について答えていただきました。
とても正直に答えていただいたと感謝しています。
この信心決定という目的に向くと言うことと、善ということは、簡単と言えば簡単ですが、誤解されやすいところでもあります。

「信心決定する一念」においては、善も悪も用事がないので、有名な歎異抄には

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきが故に、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故に(歎異抄第1章)

と言われています。「善もいらない」「悪もおそれない」というのは、獲信の一念(本願を信ぜん)と、私たちのやる善とか悪とかいう行いは関係がなく、ただ弥陀より賜る他力の信心一つで決まるからです。

ただ、「どんなささいな善もしたい気持ちになるのだろう」と思って善をするのは、間違いです。それは、「これだけ善をすれば、こういう気持ちになり、やがて救われるだろう」という心だからです。
問題なのは、善そのものではなく、その善をやろうとする時の心なのです。
もちろん善をしなくてよいといっているのでもなく、大いに善はするべきものです。

「善をするかしないか」ということは、「よいかわるいか」という問題ではないのです。「どういう心でしているのか」という問題であり、その「心」が、弥陀の本願をはねつける自力の心なのですから、よくよく知らねばならないところです。

とはいえ、大事なのは、やはり「現在ただ今救う」と誓われた弥陀の本願に、現在ただ今救われるということです。