安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「救いの予定をたてる」のが自力(maryさんのコメントより)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
お尋ねの件についてお答えします。

>「諸善をしないと実機がわからない」という「実機」とは、どんなものだと思われますか?
よく分かりませんが、「煩悩で悪ばかり造っているから(悪因悪果で)地獄行き」と知らされるのかなと思っています。
(maryさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090204/1233706262#c1233748509

「諸善をしないと実機がわからない」の実機が「地獄行き」ならば、「諸善をすれば地獄行きの姿が知らされ救われる」ということになります。
たしかに親鸞聖人は歎異抄に

いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(歎異抄)

といわれています。しかしこれは、「地獄は一定と知らされて救われた」ということではありません。「弥陀に救われると地獄は一定と知らされた」ということなのです。
「善をしたら救われるのではない」というのがわかられても、次に「地獄は一定と知らされたら」と別の条件を持ってきていると言うことです。「○○したら」「○○できたら」救われるというのは、すべて条件なので、弥陀の救いに条件をつけている心です。
その条件をどうしてもつけないといけないと思う心が、自力の心とか計らいといわれるものなのです。
実機というのは、実際の機ざまですから、信前信後変わらない姿です。よく言われる言葉で言えば煩悩具足の姿なのですが、「弥陀の救い」という角度からいいますと、言い方が変わります。それについては、また次回書きますのでよろしくお願いします。

宿善については『なぜ答えぬ』に「それが間に合って救われるのではないが、救いとよい関係にある宿善」と書かれており、「救いと無関係」と言われると、
(よくわからないけれど、大事なところなので)実際どうなのかと心配になります。
(中略)「阿弥陀様はそんな心受け取って下さいません。」の言葉も、厳しいです。阿弥陀様、阿弥陀様と呼びかけては色々しているので・・。
(略)
私は阿弥陀様を泣かせているのでしょうか・・?
ところで、念仏は20願の人でなくても、称えずにおれなくなってくると思います。(お礼の念仏ではないですが。)
(maryさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090204/1233706262#c1233748509

救いと無関係と言うことについては、前回のエントリーのこの部分のことを言われたのではないかと思います。

「善をしなければ助からない」という思いがあるようですから、そこは「救いの条件ではない」という点で一度頭を切り換えて頂きたいと思います。
弥陀の救いに条件という言葉を使うなら「雑行を捨てて」です(maryさん、悲しい気持ちさんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について)

「救いとよい関係にある宿善」という場合の、宿善は「救いの条件ではない」というものであり、「善をしたこと」とは異なるのです。
以前のエントリーでも書きましたが、蓮如上人が「まことに宿善まかせ」といわれるのは、私たちの自覚の上では「聞法心」のことです。
「それが間に合って救われるのではないが、救いと良い関係にある宿善」と言う文章は、そういうことから言いますと
「聞法心が間に合って救われるのではないが、救いと良い関係にある聞法心」ということになります。
ここ一つ聞き抜こう、現在ただ今救われようという心が強くなってそれが成就したのが真実信心ではありません。しかし、ここ一つ聞き抜こうという心が起こされないと何も始まらないのです。
このここ一つ聞き抜こうという心は、阿弥陀仏の19願の願力によって起こされる心ですから、それ自体は弥陀の18願の救いに引き入れるための方便であって、18願そのものではないのです。良い関係というのは、方便と真実という関係です。

(1)良いことをすれば→(2)宿善が厚くなって→(3)それによって聞法心が強くなって→(4)地獄行きの姿が知らされて→(5)救われる
という救済の予定を頭の中で建てておられるように思いますが、上記のような阿弥陀仏の救いに予定を立てる心を自力というのです。阿弥陀仏の五劫思惟ではまだ足りぬと否定して、阿弥陀仏の頭の上に立ってああだこうだと言っているわけですから、阿弥陀仏からすれば救いを妨げている心に違いありません。その心は邪魔だから捨てよと言われているのです。
感情的に、ああなったら、こうなったら助かるだろうと思うばかりが救いの予定をたてる心ではないのです。

そもそも(1)から(5)のような手順を踏むのであれば、どうして一念で救われるのでしょうか?阿弥陀仏の本願は、無常迅速の者を目当てに本願を建てられているのです。

如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす。(口伝鈔)

阿弥陀仏の本願は、命の短い者を救うために建てられているのです。もし、救いに時間がかかるような本願であったならば、命が今にも消えてしまう無常迅速の者は、本願に救われることはありません。だから、浄土真宗のもっとも大事なところは、一念往生、一念の救いが要なのだといわれています。
すべて阿弥陀仏のされることなのですから、(1)から(4)を私が積み上げねば救われないのではありません。積み上げねば助からないという心こそ、捨てねばならない雑行雑修自力の心なのです。それを捨てようとしないから阿弥陀仏を泣かせているのです。
信心数え歌にあるとおりです。

八つ、益にも立たぬ雑行や、雑修自力は捨てもせで、弥陀仏泣かせて居たことは、ほんに今迄知らなんだ

ではどうすればいいのかと思われるでしょうが、「阿弥陀仏に現在救われてください」というのが結論です。お釈迦様が「一向専念無量寿仏」といわれたのも、同じ御心なのです。

最後になりましたが、悲しい気持ちさん、コメント有り難うございました。

高森先生の御説法の昼休みの集合や、普段ある講演会(1日分もしくは半日分のビデオ御法話)の終了後や、二時間の勉強会の終了後等、とりあえず、会員対象のときは、必ずでした。
(悲しい気持ちさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090204/1233706262#c1233747279

弥陀の救いに条件という言葉を使うなら「雑行を捨てて」です(maryさん、悲しい気持ちさんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について)のなかでお尋ねした件について、コメントを頂きました。
悲しい気持ちさんの立場で言えば、月に少なくとも5回以上は財施の話を聞いたと言うことになるかと思います。言い方がどうあれ、これだけ言われれば、「なぜこれほど財施の話ばかりなのだ」と思われる気持ちは当然起きると思います。
今回のエントリーで書いたような、(1)から(5)のような救いの予定を思っていっているのであれば間違いです。もちろんそうではないと思いますが。

阿弥陀仏の救いは、阿弥陀仏がされることなのです。善が足りないから助からないのでもありません。悪が多いから救われないのでもありません。
ここ一つという聞法心が起きないからであり、雑行雑修自力の心がわからないからであり、よって廃ったということもないからです。一念の救いですから、現在ただ今阿弥陀仏に救われてください。