安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

従う「教え」とは、「知識」か「弥陀」か?(もみじさんのメールより)

もみじさんからメールを頂きました。有難うございました。
その一部について、この安心問答上でお答え致します。

(中略)(法を説く人が)親鸞聖人の教えと異なる解釈であったとした場合、その教えを聞かせていただくことで信心決定できるのでしょうか?

これは、法を説く人がどんな人であるかによって答えは異なります。
真実信心決定している人が、教義的に全く一度も間違いを犯さないと言うことはあり得ないことです。親鸞聖人でさえ「われあやまてり」と言われているのですから。
阿弥陀仏に救われたからといって、急に教義に明るくなると言うことはないので、妙好人といわれるひとに、突然、阿弥陀仏の十八願を一字一字解説してくれといっても、できることではありません。
真実信心決定しても、仏教の学問、真宗学の研鑚をしなければ、教義を人に解説する上で間違いを犯す可能性はあります。

前提として、法を説く立場の人が、真実信心の方ならば、仮に教えで異なる解釈をした部分があったからといって、直ちに、その人の話をいくら聞いたところで、信心決定できないとはいえません。
反対に、真実信心もなく、教義も昏いとなれば、弥陀まかせとはいいながら、難しいです。

ただ、真実信心の人で、教義解釈の間違いがあるといっても、蓮如上人が言われるようなことを勧めない人は、法を説く人とはいえません。また、真実信心獲得した人は、かならず言葉は違っても以下のように言うはずです。

善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、人を勧むべきばかりなり。(御文章2帖目11通・五重の義)

ここを間違って言う人は、法を説くとはいえません。法とは阿弥陀仏の本願であり。一向専念無量寿仏ですから、阿弥陀仏に一向専念せよ、「一心一向に弥陀に帰命せよ」と説かねば、それは知識とは言われません。妙好人とも言われません。

ただ、よくよく知っていなければならないところは、そのあとに蓮如上人が続けて書かれている部分です。

しかれども、帰するところの弥陀を棄てて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、大なる過なりと、心得べきものなり。(同上)

もみじさんの質問の答えとして、サイトに蓮如上人の教えられた言葉でお答えしました。
「善知識の言葉」ではなく、「善知識の教え」を聞くのです。
その「教え」が「一心一向に弥陀に帰命せよ」でなければ、それは「教え」ではありまえせん。
その教えが「一心一向に弥陀に帰命せよ」だからこそ、その「教え」に従えば、「弥陀を棄てて、善知識を本とする」ということはありえないことです。
あくまでも、真実信心は弥陀より賜るものなのですから。