安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

たとえいつ命が終わっても、一念の救いに段階はありません(フーテンの虎さんのコメントより)

フーテンの虎さんよりコメントを頂きました。
返事が遅くなり申し訳後会いませんでした。
(コメントはこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081212/1229075513#c1229092932

私がした質問に以下のように答えていただきました。

「いかに聞かない者」というのは、どういう意味でのことでしょうか?
「真剣に聞こうという気持ちが続かない」という意味でしょうか?
「聞かない者」は救われない?(フーテンの虎さんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について))

この質問に対しては

まず、1つめは、山の山さんもおっしゃているように、真剣に聞こうという気持ちが
続かないという意味です。

と答えていただきました。これについては、前回のエントリーでお答えした内容でいいと思います。

真剣な気持ちが続かないから助からないということになれば、真剣な気持ちが続けば助かると言うことになってしまいます。
真剣に聞こうという気持ちが続くのが目的ではありません。平生のただ今救われようと思ったら、真剣に聞こうとします。聞くなといったところで、聞きます。

「最期まで聞く」とはどういう意味で言われているのでしょうか?
「最期まで聞けたら」助かる、信心決定するということなのでしょうか?
何を聞くのを「最期まで聞く」といわれているのでしょうか?

という質問に

もう1つの最期まで聞けないの最期とは、この命がなくなるまでということです。

と答えて頂きました。

命がなくなるまで、救われないということだろかというお答えだと理解しました。
弥陀の救いは、平生元気なときであり、ただ今のことです。

如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす。(口伝鈔)

阿弥陀如来の本願は、いのちが一刹那という大変短い時間に切れてしまう、無常の者を救うという本願を建てられています。私たちの命というのは大変短いです。
短いということでいえば、いつどうなるかわかりません。この文章を読んでいる間にも、命はなくなることが、可能性としてはいつも内在しています。
だから、一念で救うという本願をたてられたのが阿弥陀如来の本願です。

命がおわるまで、聞けないのではないかというのは、命が終わるまで時間があると思っている以上に、その命の間に、いくつも段階を経ないと、信心決定はできないと思っている心から来ているのです。

信心決定は、一念の体験であり、弥陀の救いは一念の救いです。その一念に段階とか、ステップとかは存在しませんし、存在したら一念ではありません。

なにか段階があるように思う心は、計らいであり、自力の心です。
現在ただ今救われるのが弥陀の本願です。
ただ今救われて下さい。