安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本願をそのまま聞いて救われたいのですが、一向にただいま救われません。お手上げです」(安心問答を読んで3年さん、新垣真さんのコメントより)

安心問答を読んで3年さん、新垣真さん、ややさんよりコメントをいただきました。有難うございました。

本願をそのまま聞いて救われたいのですが、一向にただいま救われません。お手上げです(^^;; (安心問答を読んで3年さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120101/1325365285#c1325402030

そうなりますと、やはり私も そのまま来いの本願をそのまま聞くとは、どういうことか?という疑問が最後の砦になってきます。
もちろん知識の説法を耳で聞くだけ、また理解し、合点したのが信ではないですよね。

ここで高森会長でしたら、善知識の説法を間断なく聞き続け、自己の無常と罪悪をとりつめることで、理解や合点を超えた信心が徹底すると説かれますが、まずここで疑問なのが、皆さんには「善知識」はいらっしゃるのでしょうか。「親鸞会以外をお勧めします」と助言してくださいました方がありましたが、要は高森会長以外なら全て善知識ということなのでしょうか。(新垣真さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120101/1325365285#c1325427433

「早く救われないかなぁ」と待っているのは、本願を聞いて疑いないとは違います。また、「理解、合点」も信心ではありません。

本願を聞いたそのままの救いですが、これは言葉通りでそれ以上に裏の意味はありません。しかし、「聞いたそのまま」と聞くと、どうしても「そのままってどういうことだろうか?」と考えてしまいます。また、私も以前は「そのまま」とか「ただ」とかいう言葉には何か大変深い意味があるのだと考えていました。ですが、それは間違いです。

ただ今救うという本願の仰せは、親鸞聖人も「本願招喚の勅命*1」といわれています。それは、阿弥陀仏の「ただ今救う」の喚び声は、ただそのまま聞く以外にないという大変強い仰せだということです。阿弥陀仏が「助けるぞ」といわれれば、そのとおりになるということです。

その勅命というのは、今日一般的な言葉ではないので、時代劇を例にします。昨年放送終了した時代劇水戸黄門でいえば、番組終盤で「控えおろう」と格さんが印籠を出すと、その言葉を聞いた人はみな控えてしまいます。それはただの言葉ですが、逆らうことができない大変強い言葉です。
阿弥陀仏の本願も「ただ今救う」とよびかけられる招喚の勅命ですから、それには「いつ?」「どうやって?」「私がですか?」と私の計らいを差し挟む余地が無いということです。しかし、そこに「今ですか?」とか「罪悪も無常もとりつまっていないのですが…」とか「理解がまだ浅いのですが…」と自分の計らいを挟むと、それはその本願の仰せの通りに聞いていないことになります。結果として、本願招喚の勅命の通りにならないということです。

そうやって、自分の考えを本願より先に出して、本願を聞かないのを自力と言います。先ほどの水戸黄門でいえば「控えおろう」といわれて「控えない人」です。水戸黄門のシリーズ中には、必ず「控えない人」が出てきます。どんな人かは、以下の動画を参照ください。

参考動画:控えない人々

この「控えない人々」は、「これがご老公であるはずがない」などと言っては、「控えおろう」と聞いても控えません。

ちょうど同じように、阿弥陀仏の本願は「ただ今救う」と聞いても、「そんなはずはない」とあれこれ自分の計らいを優先するのは、本願招喚の勅命をはねつけているのです。

「控えおろう」といわれれば、控えることになっているのが水戸黄門ですが、「ただ今助ける」といわれれば、「ただ今助かる」ことになっているのが阿弥陀仏の本願です。
「ただ今救う」の本願を、ただ今聞いて救われてください。どうしたら救うという本願ではありません。そう考えるのも自力ですから、それは捨てものです。

もう一つの「善知識」については、ややさんがコメントされていますように、ご自分でいろいろと調べてみることをお勧めします。

理由は、新垣さんが話を聞いている親鸞会教義・高森顕徹会長の説は、知識帰命だからです。知識帰命とは、知識の力で救われるように考える間違いです。

知識帰命については、御文章に以下のように書かれています。

またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。(御文章2帖11通・五重の義)

http://278.dj.sl.pt

このように、阿弥陀仏よりも知識を優先してしまうのが知識帰命です。ですから、親鸞会では「高森会長から聞かねばならない」と徹底されます。大きな講堂を建てたり、ネット中継をしてまで「高森会長の話」を聞かせようとしているのが、高森会長です。
会長自らが、会員の知識帰命を推進しているのが親鸞会です。そのため親鸞会に長くいますと、どうしても親鸞会を辞めても「善知識がダメだったから救われなかった、もっといい善知識から聞いたら救われる筈」という発想になりがちです。
蓮如上人がいわれるように、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむ」のが善知識です。「誰から」聞くかではなく、「何を聞くか」が大事です。救って下されるのは阿弥陀仏であって、善知識ではありません。

新垣さんに「○○先生が善知識だ」と仮に勧めても、上記のような知識帰命の考えを持ったままでしたら、それは弥陀に帰命するのではなく別の知識に帰命することを続けるだけになってしまいます。

「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と説く人は、親鸞会以外に必ずいます。それに対して、高森顕徹会長は「一心一向にワシに帰命したてまつるべし」と言っているので、いわゆる「善知識」ではありません。「一心一向に弥陀に帰命せよ」と勧める方があることは、ネットで調べて勧められる和上方の本を幾つか読むだけでも分かることです。

*1:衆生に帰せよと命じる如来のよび声。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版) P.170)。