安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「真剣になれたら」というのも救いの条件ではありません(orimaさんのコメントより)

orimaさんよりコメントを頂きました。
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081208/1228730245#c1229000133
orimaさん、ありがとうございました。

信心決定という目的に向かっていく中で、「こうならなければ助からない」という型にはまってしまい勝ちです。型にはまれば助かるということではないということについて、「どういう型にとらわれていますか?」という問いに対して

型と言えるのかどうか分かりませんが、「仏法に対し、こんな怠け者な自分がそうでなくなったら」、「ご法話でお聞きしたお言葉を、自分のこととして受け止められたら」、「無常や罪悪がもっと自分の問題になれば」、「ただ今救う本願のことをもっと思えたら」、「もっと聴聞の機会にあえたら」、…などです。

自らの心を打ち出していただきありがとうございました。
「怠け者の自分がそうでなくなったら」というのは、多くの人が思うことだと思います。このエントリーを読まれている人でも、そう思っておられる方もあると思います。
「自分のこととして受け止めたら」「自分の問題となったら」
ということに、共通するのは、別の言葉で言いますと「もっと真剣になれたら」ということです。
「ただ今救う本願のことをもっと思えたら」も、同様に、「もっと真剣に信心決定を目指せたら」ということです。
「もっと聴聞の機会にあえたら」というのは、「聞法の回数がまだ少ないから」ということであり、もっと長年聞けばいつか救われると思う心です。

上記に書きましたように、大きく分けると
「真剣になれたら救われる」というものと、「長年聞いたらいつか救われる」という「型」だと感じます。

真剣でないものが、真剣になったら救われるとなれば、「真剣になること」が目的化してしまいます。それだけに止まらず、「真剣になれない自分は助からない」というように思うように、自分で自分を救いから遠ざけるような考えに陥ってしまいます。

前回のエントリーにも書きましたが、弥陀に救われて知らされる自己の姿というのは、決して「真剣に仏法を求める者」ではありません。

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)

「真剣になれる者」ならば、「出離の縁有る事無し」ではありません。
「出離の縁有る」ということになります。

言葉で表すと、どこが違うのかと思われるかもしれませんが、
「真剣に求める姿になったら救われる」のではなく、
「現在救われる本願に、現在救われようと求める姿が、真剣な姿になってあらわれる」のです。
「真剣に求める」というのは、あくまで「現在ただ今の救いを求める」という目的に向かう人が、結果として姿となって現れるもので、「真剣に求める姿」という型にはまろうとしたら、「現在ただ今救いを求める気持ちになる」のではありません。

もう一つの、「長年聞いたらいつかは」というのは、「現在の自分では救われない」という心であり、「現在の自分に足りない何か(聞法心や、善といわれるもの)がプラスされれば救われる」と思う心です。

そういう「足りない何かを足せば・・・」という「何か」が、「型」となり、そういう「型」に自分をはめこもうと思う心を自力の心とか、計らいと言われるのです。
「出離の縁有る事無し」の姿は、どこまでいってもかわりません。
足りないものはなにもありません。何かを足してどうにかなるなら「出離の縁有る事無し」ではないのです。型にはまろうという自力の心が廃らないだけなのです。

救うのはあくまで阿弥陀仏であり、向かうべきは自分の作った型ではなく、弥陀の本願なのです。
どうしたら、本願に心が向くか、一向専念無量寿仏になるかということで、阿弥陀仏や、お釈迦様は常に働きづくめです。

釈迦弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまいけり(高僧和讃)

親鸞聖人はいわれている通りです。
無上の信心を発起して下されるのは、私が型にはまったからではありません。あくまでも、阿弥陀仏の本願力であり、そこへなんとかと導かれたお釈迦様の教えによるのです。

最後に、orimaさんにお尋ねします。
問.「もっと聴聞の機会にあえたら」というのは、どれくらい聴聞の機会にあえたら結果としてどうなるのだと思っておられますか?

poppoyaさん、フーテンの虎さんの質問には、また次回お答えします。
申し訳ございませんが、少しお待ちください。