安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「聞かない者」は救われない?(フーテンの虎さんのコメントより)

フーテンの虎さんよりコメントを頂きました。ありがとうございました。
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081211/1228999289#c1229007702

山の山さん、回答ありがとうございました。 もうひとつのことですが、なぜ除外されていると感じるかといえば、
阿弥陀仏の本願には、すべての人を必ず救うと誓っておられる。が、仏法をお聞きすればするほどいかに聞かない者であるかと知らされ、こんな奴が救われるなんて思えない。ひょっとして、本願からもれた者かもしれない。

コメント内容で、一つお尋ねします。
「いかに聞かない者」というのは、どういう意味でのことでしょうか?
「真剣に聞こうという気持ちが続かない」という意味でしょうか?
「真剣に聞こうという気持ちが続く人」が本願のお目当てではありません。十方衆生は、そういう者と見抜いた上で本願を建てておられるのです。

願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず(正像末和讃)

と親鸞聖人は教えておられます。
「罪業深重もおもからず」ですから、罪の重さはどれほどの罪でも、弥陀の救いには問題にはならないのです。阿弥陀仏の本願力は「無窮」で極まりがないからです。
また、「散乱放逸もすてられず」ですから、たとえば聞法中になかなか真剣に聞けない者。助かろうという心が続かないもの。そんなものでも、「仏地無辺」でありますから、心がどこを飛び回っていても、阿弥陀仏の光明の及ばないところはどこにもありません。
「救われるとは思えない」とは、フーテンの虎さんが、そう思っているだけで、阿弥陀仏は、そういう者と見抜いて本願を建てられているのです。
「聞かない者」だから助からないのでしょうか。

「聞かない者」を「救われない者」と言い換えても、その姿は信前信後を通じて変わらないのです。

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)

と、善導大師、親鸞聖人がいわれているように、「出離の縁有る事無し」というのは、助かる縁がないということです。別の言葉で言えば「救われない者」ということです。
それは、曠劫の昔から、変わらない姿なのです。

どうすればいいのか。どう聞いたらよいのか。最期まで聞けないのか。本願が信じきれない。やはり除外されているのか。
と、思うようになったのです。しかし、聴聞はやめられない。聞かなければいけないと心は動くのです。

ここの部分でもう一つお尋ねします。「最期まで聞く」とはどういう意味で言われているのでしょうか?
「最期まで聞けたら」助かる、信心決定するということなのでしょうか?
何を聞くのを「最期まで聞く」といわれているのでしょうか?
おたずねします。

「出離の縁有る事なし」というのは、「救われない者」と言いましたが、本願からも除かれている者なのです。
このように書くと混乱されるかもしれませんが、信前信後を通じて、自己の姿が変わらないというのはそういうことなのです。
「救われない者」が「救われるような立派な者」に変わるということではありません。

変わるというのは、自力の心がなくなっただけなのです。
南無阿弥陀仏を頂くということは、阿弥陀仏から頂くのであって、私そのもの(助からぬ者・出離の縁有ること無しの者)が、何かしら変化をしたらいただけるのではありません。

もちろん、蓮如上人が言われているように

仏心と凡心と一になるところをさして、信心獲得の行者とはいうなり。(御文章2帖目9通・忠臣貞女・外典)

信心獲得した人は、仏心(南無阿弥陀仏)と凡心(私)とが一体になるわけですから、信前信後で、そこはまったく変わってしまいます。
変わってしまいますが、「出離の縁有る事無し」は、まったく変わりません。1ミリも変わりません。

このあたりは、非常に誤解されている方も多いところだと思います。また、こう書くと余計に混乱されるかもしれませんが、考えるのをやめるのは、やめていただきたいと思います。

二つ、お尋ねした件については、またコメントをいただければ、回答をいたします。

orimaさんpoppoyaさんコメントありがとうございました。
今日はエントリーできませんでしたが、必ずお答えしますのでよろしくお願いします。
どちらもとても大事なないようの質問です。