安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「助かる者」だと思うことについて(orimaさんのコメントより)

orimaさんより、コメントを頂きました。有難うございました。

『「仏法が心にかかったら助かる」ような者なのでしょうか。「真剣になれないだけ」「真剣になったら救われる」という心は、「自分は助かる者だ」という考えです。』
のお言葉については、すみません、よく分かりませんでした。

一体、何をどのようにして求めていったらいいのか、具体的に自分はどうしたらいいのか、と思ってしまうのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081222/1229947925#c1230303789

おたずねの件について、お答え致します。
これは、それ以前のエントリーとは、少し角度を変えて書いたものです。

阿弥陀仏の本願には、「唯除五逆誹謗正法」と教えてあり、平たい言葉で言えば、「助からぬ者」と、阿弥陀仏は見抜いて本願を建てておられます。
そのことを御文章には

夫れ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。(御文章2帖目8通・本師本仏)

と教えておられるのです。
十方諸仏三世の諸仏が棄てた者が、私というものなのです。
この姿は、信前信後、弥陀に救われる前も、救われた後も変わりません。

私たちの姿から言えば、「救われないもの」が「救われる者」に変化して、やがて救われると言うことではありません。
それを「真剣になったら救われる」という表現をしました。
その根底にあるのは、自分自身は、現時点では助からない者でも、やがて助かるようになるというところから、「結局自分は助かる者だ」と思う心です。
「助からぬ者」と見抜いて弥陀は本願を建てておられるのに、その本願の相手である私が「助かる者だ」と思っていれば、本願と私が相応しません。願に不相応ということですから、助かりません。
「願に相応する」のが、真実信心獲得するということなのです。

願に相応しない自分を、願に相応させようと計らって、ああしたらこうしたらと思う心を自力の心というのです。
「明如来本誓応機(正信偈)」
と親鸞聖人が言われるように、阿弥陀如来の本願は、機に応じて下されるものなのです。それを、あれこれ自分で作った型に本願を相応させようとするから、三世の諸仏も見捨てるのです。
阿弥陀仏の上に立つ心といわれるのはそのためなのです。

具体的にどうすれば、いいのですかということですが、「具体的に現在助かろう」と思って、現在の救いを求めて下さい。

「どうする」という手段の前に、大事なのは目的地です。
どこに出かけてもせわしない時期になってきました。無常はもっと迅速です。
それより早いのが、一念の弥陀の救いなのです。