安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

まず信心決定をして、世を過ごすこと肝要(poppoyaさんのコメントより)

poppoyaさんよりコメントを頂きました。
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081211/1228999289#c1229006323
返答が遅くなり申し訳ございませんでした。

一つずつお答えしてきます。

「今助かろう」という気持ちで求める人に、自力の心が見えてくる、と書かれていますが、見えてくる自力の心とはどういう心なのでしょうか。

自力の心とはどんな心かと言うことですが、

だからどうしたら聞けるんだろう、どうしたら助かるんだろう、と思って聞かせていただくのですが、でもどうすればいいのかよく分からなくて、質問させていただいています。

どうしたら助かるのかが、判るということです。
どうしたら助かると言っても、助かる近道のことではありません。別の言い方をしますと、「何が原因で、何が妨げとなっているから助からないのかが判る」ということです。
その「何」が自力の心であると、判ることが、自力の心が見えると言ったのです。

もちろん信心決定が目的で、自力を知るために聞いているのではないのですが、やっぱり蓮如上人が「雑行を捨てよ」とあれだけ書かれているので、それを知らなければいけないと思います。

もちろん知らねばなりません。
しかし、目的と手段を間違ってはならないところです。ここも聞き間違えやすいところです。

「雑行や自力の心が見えたら、真剣にもとめずにおれなくなる」のではありません。
「ただ今の救いを真剣に求める心が起きれば、雑行や自力の心が見えてくるのです」

自力の心は当然問題になってきますが、その「問題になる」というのは、「わからないこと」が問題になるのではありません。
「わからないことが問題になる」というのは、「教えはほぼ納得した、あとは自力がわからないだけだ、自力の心さえ判れば、あとは捨てるだけだから、なんとか自力を知ろう」と問題になることです。
「自力の心が問題になる」というのは、「ここ一つ明らかにならねばならない」と、自力の心が見えた上で、「どうすればこの自力の心が廃るのか、どう思った、どう聞いたら廃るのかが問題になる」ということなのです。

それで心が暗くて、なんとか明るくなりたいのですが、それには自力の心をハッキリ知らなければならないと思いました。

この問いに対する質問は、本願に向って、ただ今救われようという心になることが、先で、自力の心が問題になるのはその後なのです。

 かかる世の中の風情なれば、いかにも一日も片時も急ぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定して、その後人間の有様にまかせて、世を過すべきこと肝要なりと皆々心得べし。(御文章4帖目13通 秋去り春去り)

一日も片時も急いで信心決定して、弥陀の浄土へ往生一定の身になって、その後でその人その人に応じて、人生を過ごすことが肝要だと蓮如上人はいわれています。

「信心決定するには、まず自力の心を知らねば」では無いのです。
蓮如上人がいわれているように「まず信心決定してから、人生を過ごしてください」なのです。

信心決定は、臨終にでもできればいいと思う心は、ただ今の救いを自ら遠ざける心です。まずは信心決定して下さい。
ただ今弥陀に救われてください。

まだお答えしていないところもありますが、今回はここで一旦終わります。
今回のエントリーで、不明な点があればまたコメントお願い致します。