安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「続かない心」と弥陀の救いとの関係(orimaさんのコメントより)

orimaさんへ
コメント有り難うございました。
全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081117/1226913220#c1226930881

ただ今の救いに心をかける、ということはどのようなことなのでしょうか。どうしたらかかるものなのでしょうか。

とても真面目な質問だと思います。
最初に、「ただ今の救いの心をかける」とは、文字通り「ただ今救われよう」と真剣になり、そういうように考えていること自体まだ救われていないのですから、「なぜ自分はただ今弥陀の救いにあっていないのか」と心を見つめることをいいます。

そこで、どうしたら心にかかるのかということですが、orimaさんのいわれるように

今信心決定しようと臨もうとしても、感情が踊っているだけのような気持ちになってしまいます。

また、仕事や生活のことで、すぐに続かなくなってしまいます。

これは、「感情が踊っている」と認識しているわけですから、感情だけ求めておられるのではないのだと思います。気ばかり焦って、先へ進む実感がないということですね。
また、仕事や日常生活のことなどに心をとらわれると、「信心決定」といっても、そこに心が向かなくなるということは、誰でも悩むところです。

そこで、少し角度を変えてお話しします。「信仰」というのは「進む」ものなのでしょうか。A地点から、B地点へ移動するようなものでしょうか。

「わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。」(口伝鈔)

宿善でいえば、厚い、薄いといわれています。信仰でいば、深い、浅いという言い方がよくなされます。
深いという言葉は、文字通り、自分自身からいえば、自分自身の心の深いところへ、深いところへと心が向いていくのです。
信心決定しようと臨むことはとても大事なことです。しかし、「信心決定した世界」は、「ここではないどこか」にあるのではありません。「ここではないどこか」へ行こうということでしたら、「どこへ向かっていけばいいのか」「どう進んだら行けるのか」「近道はどこかにないのか」と、それが分からないから、焦る気持ちばかりでてきます。
焦るだけでなく、「ここではないどこかへ行かねば信心決定できない」と思う以上、その「場所」「行き方」「方法」にどうしても目がいき、大事な目的(信心決定)を見失いがちです。
弥陀の本願からいっても、信心決定とは、「現在ただ今の救い」です。「平生業成」といわれますが、「ここではないどこか」へ行かねば獲られない真実信心なら、どうして一念で獲得できるでしょうか。
「現在ただ今」のあなたの心に、南無阿弥陀仏の名号は届くのです。

南無阿弥陀仏の名号を、はねつける自力の心も、あなたの心に現在あるものです。
そういう意味からいえば、現在信心決定しようと思うならば、「どこかへ進む」(平行移動)ではなく、言い方を変えると我が心の中に潜って(上下移動)いかねばなりません。
こういうと、なにか、座禅のようなものを想像されるかも知れませんが、そんなものではありません。仏法も聞きにいかず、勤行もせず、ただ自己反省をするということではありません。心を見つめ、心に問いかけるということはどういうことかということを、別の言い方でしたものです。
もちろん大前提は、弥陀の本願に真剣に向かった上でのことです。

そこでお尋ねします。

質問1.
そこで、自分の心と向き合ったときに、「生活や仕事のことで続かなくなる心」は、どんな心でしょうか?
その心が続いたと仮定して、それがどうにかなったら、信心決定するということでしょうか?

また、そう思っているから、「生活や仕事のことで続かなくなる心」が問題になっているのではないでしょうか?
それは一体なんだと思われるでしょうか?

今回は、ブログタイトル通り問答の形式にします。まずは、orimaさんの心の中を打ち出してもらわないと、「何が正しいのか、何が間違っているのか」という話はできません。
できない以上は、沙汰になりません。

目的が定まっていないから空回りになるのでしょうか。

また、他の人たちが仏法をきいていることを喜んでいるような姿を見ると、自分の感情は冷めた感じで、もっとご縁のあったことを喜べてもいいのではないかと不安にも思います。

こんな気持ちで求めていてよいのかとも思います。

「もっと喜んでもいいのではないか」という気持ちにも二通り有り、「自分の本心」というものをよく見つめた上で、感情ではない気持ちからいった場合と、仏法を聞き始めた最初の高揚感が覚めて来た場合です。

「感情が高揚していなければならない」というのは、思いこみです。
仏法は、感情で求めるものではありません。自分の心に問いかける以上は、あくまでも理性的に法は求めなければならないものです。

「冷めた感じ」というのは、決して悪いことではないのです。
信心決定して、「今宵は身にもあまりぬるかな」という身になるのは、大事なことですが、あくまでも目的は「喜ぶ」ことではないのです。「信心決定」の身になることなのです。

「喜んでいること」で喜んで安心しておれるのなら、それはまた「喜んでいるからよいだろう」という安楽椅子です。その椅子も壊していかねばなりません。
「安楽椅子の喜び」など、獲信と全く無関係だからです。

もう一つお尋ねします。

質問2
「冷めた感じ」は、正直な感想だと思いますが、「もっと喜べていいのではないかという不安」は、なぜ起きるのでしょうか?
喜べないと、なぜ不安になるのでしょうか?

orimaさんに限らず、このエントリーを読まれた方は、自分の心の目を向けて考えてみてください。
求道が空回りしてるというのは、心が空回りしていると言うことなのですから。