安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「やがて」は永遠に来ない時、あるのは「ただ今」(orimaさんのコメントより)

orimaさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
質問にお答えします。

今救う本願に今救われようと向かって、聞法やお勤めをしていけば、やがて「今救われたい」という心になるのだろう、と考えているのも、何か間違っているように思います。

今救われようという思いも続かず、もともと怠け者なので、楽な方へ楽な方へと走ってしまいます。

質問と言えるか分かりませんが、どうぞ宜しくお願い致します。
(orimaさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090205/1233792231#c1233827153

「やがて」○○という心になるのだろうという、「やがて」という心は間違いです。あくまでも、一念の救いなのですから、現在ただ今救われることが目的です。

あわれあわれ存命のうちに、皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり(御文章5帖目15通・大阪建立)

蓮如上人が朝夕念じられた信心決定とは、「存命のうち」なのです。存命のうちにと言うのは、命のある間にということですが、明日の命というのは、今日を生き延びた人にあるものです。今日一日の命もいつまであるのか、それは誰も保証できません。
確実にいえることは、「現在ただ今生きている」ということしか、確実なことはないからです。それも1秒後の未来はどうなっているかわかりません。

だからこそ、「現在ただ今」救われなければ、救われる「いつか」は永遠に来ません。永遠に来ないと言うことは、救われるときはないということです。

若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば更りてまた昿劫を逕歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。(教行信証総序)

親鸞聖人も「このたび」と言われているのは、その御心です。
orimaさんは、何が目的かをすでに自覚しておられるので、そこからぶれないようにすることが大事なのです。
繰り返しますが、信心決定し、弥陀に救われるのは、「いつか」ではなく「ただ今」なのです。

悲しい気持ちさん、コメント有り難うございました。
向かうべきは、阿弥陀仏であり、現在の救いです。

maryさん、実機については明日エントリーしますので、よろしくお願いします。