フーテンの虎さんよりコメントをいただきました。
ありがとうございました。(全文はこちらhttp://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081210/1228900194#c1228920730)
自分の心を正直に打ち出しておられると思いました。
私は死後の世界はあると幼い時から思っていたので、後生の一大事があるぞ。今生で解決ができるぞとお聞きして、仏法を聞き求めはじめました。最初は、仏法にあえた喜びと知識欲で胸に収まっていきました。
仏法にあえた喜びというのは、言葉を代えると「自分の思っていたことは間違っていなかった」という喜びだったのだと思います。
自己承認欲求が満たされた喜びです。こういうと、身もふたもないように思われるかもしれませんが、「喜び」というのも感情です。
「仏説まこと」と知らされた喜びと、「自己承認欲求が満たされた」喜びは、字からいえば同じ「喜び」ですが、内容が異なります。
自己承認欲求が満たされた喜びというのは、知己に出会えた喜びといいますか、「自分のことを理解してくれる人に出会えた」という喜びです。
自分を認めてくれた先生に会ったとか、自分を認めてくれる友人に出会った、異性に出会ったという喜びと同質のものです。そういう喜びも喜びですが、うれしいには違いありません。しかし、それは感情であるから一時的なものです。
そこで次にある、「知識欲が満たされる喜び」になって、続けて聞いておられたのだと思います。教えというのも、外部のもの(一つの教義)として聞いている間は、1年も続けて聞いておられれば、その人その人異なりますが、大まかな理解はされると思います。
更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法を、われも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり。(御文章1帖目1通・或人いわく)
どれだけ深い教えといっても、文字にあらわせる限りでは、限られた数量になります。
親鸞聖人が、「珍しい教えはない」といわれているのですから、仏法を1年、2年聞いている方には、耳新しい教えはなくなると思います。
つづけて参詣していくうちに、またこの話か、以前お聞きしたことがあるという思いがでてきて、聞けなくなってしまいました。いくら同じ話を聞けといわれても、ぬぐいきれませんでした。だから、しばらく考えるのをやめたのです。そのうち、仏法での活動が忙しくなり、当初の目的が薄れてしまったと思います。
珍しい話を聞くのではないということは、蓮如上人もいわれていますが。あくまでも、目的は、外部からの知識を自分の身につけるということではなく、自己の向上でもありません。何か生きがいを感じることでもなければ、喜ぶために聞くのでもありません。
信心決定して、弥陀の浄土に往生するために仏法は聞くのです。阿弥陀如来はそのために本願を建てられたのです。
ですから、以前も書きましたが、一大事というのは、信心決定できないことを言われているのです。
此の一流のうちに於て、確々とその信心のすがたをも得たる人これなし。かくの如くの輩は、いかでか報土の往生をば容易く遂ぐべきや。一大事というは是れなり。(御文章1帖目5通・雪の中)
信心決定できなかったら、一大事だといわれています。
そのために仏法は聞くのです。
「同じ話を聞く」ために「同じ話を聞く」のではありません。それなら、どこまで行っても終わりがありませんから、考えなくなるのも当然です。
目的をはっきり定めることが大事なのです。
「○○」のために「同じ話を聞く」といっても、その「○○」が、終わりのない言葉が入るのであれば、同じように苦しむ結果になると思います。
たとえば
「求道が進む」ために、同じ話を聞く→求道が進むという言葉には、決勝点がありませんから、「どこまで進めばいいのか」となり、やはり考えるのをやめてしまうでしょう。
「宿善が厚くなる」ために、同じ話を聞く→どこまで宿善厚くなったらいいのかということになり、これも決勝点があいまいで、だんだん疲れてくると思います。
あくまでも「信心決定のため」「平生に弥陀の救いにあうため」に仏法は聞くのです。
「そこまで聞け」というのは、信心決定、平生業成という決勝点に向けてのことなのです。
もう一つのことについては、コメントをいただければまたお答えします。