安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

聴聞と自力の心の関係について(無力さんのコメントより)

無力さんへ
コメント有り難うございました。
全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081117/1226913220#c1226930185

聴聞(聞法)と自力の心との関係についてです。
回答頂けるようであれば、頂けると、大変有り難く思います。(無力さんのコメントより)

とても大事な質問なので、回答いたします。

とにかく、これまで最も聞きたかったのは、
聴聞といっても何を聞くのか、ということで、
これまでは「仏願の生起本末」だと理解していましたが、
(間違いではないのでしょうが)
しかし、それは一通り聞いたし、何も変わらないし、
どうしようかと思ってやる気が失せかけていたところでした。

それが、最近の”「ここ一つ聞き抜く」の「ここ」とは?”の記事を見ると、
「ここ」とは、「自力の心をどうすれば良いのか」、ということだと書かれています。
(一部解釈が入っていますが、間違いないですか?)

聞法を重ねていくと、このような気持ちになる方も多いことと思います。
仏願の生起本末を聞いた(読んだ)けど、何も変わらないというお尋ねです。ここは、親鸞聖人のお言葉から回答いたします。

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり。(教行信証信巻)

「聞く」ということは、どういうことか「仏願の生起本末を聞く」とありますが、そのあとに「疑心有ること無し」と続きます。
前半の仏願の生起本末を聞くことは、そういう演題の説法を聞くご縁があれば、聞くことができるのではないかと思われると思います。
ここで大事なのは、「疑心有ること無し」なのです。
「疑心有ること無し」となったのが、「聞いた」ということなのだと、親鸞聖人は言われています。

この「疑心」とは、救われたら「有ること無し」と無くなってしまうものです。ですから、「自力の心」と同じ意味です。
「疑心有ること無し」とは、「自力の心有ること無し」となったことを言います。
何も変わらないというのは、自力の心がまだ見えていないからそのように言われ、感じられるのだと思います。

「ここ一つ聞き抜く」の「ここ」とは、自力の心をどうすれば良いかと言うことだと確かに書きました。
誤解があるかも知れませんので、別の言い方で言いますと、「自力の心が見える」という上で、「これ一つ無くならないから弥陀に救われない」と分かることです。
「これ一つ無くならないから弥陀に救われない」と分かれば、それ一つ明らかになりたいと思います。それがここ一つの「ここ」なのです。

これを読むと、聴聞(聞法)というのは、
自力の心が見えていない人にはあまり意味が無いことなのではないか、
という気がしてしまいます。
というか、そもそもそういう気(聴聞に意味が無いのではないか?)がしているから、
そう読むのですが。。。

この考えは間違いでしょうか?
多分、間違いではないかと思うのですが、どこが間違いでしょうか?

聴聞は、自力の心が見えていない人には意味がないということではありません。それは因果関係が飛んでいます。
雑行雑修自力の心とは、弥陀の本願に真剣に向き合う人に見えてくる心。照らされてくる心です。
弥陀の本願に真剣に向き合うというのは、現在ただ今の救いに、現在ただ今救われようと真剣に取り組む心をいいます。
弥陀の本願に真剣に向き合うには、弥陀の本願を知らない人には向きようがありません。知らない人には教えなければなりません。聴聞というのは、その弥陀の本願を聞かせて頂く場なのです。
知識の言葉をただ聞くのではありません、知識の言葉という耳に聞こえる言葉を通して、耳にも聞こえない、目にも見えない弥陀の本願を知りそこへ向かうことなのです。

知識の仕事は、方角を指し示すことであって、真実そのものを言葉で表しているのではないのです。その方角に向かって進むと言うことが、信前の聞法です。

しかし、では、どうすれば、自力の心が分かるのか(知らされるのか)、
ということが問題になりますが、そうすると、やはり、
まずは聴聞(聞法)して下さい、ということになるのでしょうか?

しかし、「まずは」聴聞というのは、正しい説明ではありません。
「今聞き抜いてください」が正しいのです。
弥陀の救いは、話をする者や聞く者があれこれ、「今日は無理だろう」「まだ聞き始められたばかりだから」と計らうものでも、計れるものでもありません。
たとえ、初めてご法話を聞かれる方でも、どんな因縁の方かわかりません。それは、自分自身を含めてそうなのです。
「ただ今救われる」という弥陀の本願を聞き抜いてくださいというのが、聞法です。説く立場の人から言えば説法なのです。なぜただ今救われる教えを「まずは」聴聞して下さいというのでしょうか。
「まずは」聴聞という言葉遣いからすると、「まずは聴聞」の目的は、合点ということになります。私たちは、合点するために聞いているのではありません。納得するために聞いているのではありません。信心決定するために聞いているのです。ただ今弥陀の救いにあずかるために聞いているのです。

最初に出した親鸞聖人のお言葉で言いますと「疑心有ること無し」という身になる為であり、「疑心有ること無し」とは、「弥陀に救われた」ということです。
自力の心が廃って、疑心有ること無し、現在弥陀に救われたということが、仏法を「聞いた」ということなのです。

どうすれば、その自力の心が分かるのか、あえていいますが「まずは」現在救われると思って下さい。法から言えば助かるのが本当で、助からないのが間違いです。
それを「この世で助かる訳がない」と思うところが迷いの心の姿なのです。

現在救うという弥陀の本願に、本当に救われると思って求めるときの自分の心を、よくよく見つめて下さい。

orimaさんへコメントありがとうございました。
明日、回答を致しますので、よろしくおねがいします。

実際に今救われようと思ったときに

今信心決定しようと臨もうとしても、感情が踊っているだけのような気持ちになってしまいます。(orimaさんのコメントより)

というお尋ねでとても大事なところです。

最後にお兼さん、応援コメント有り難うございました。

なぜこんなに分かりやすく書くことが出来るのか?
なぜこんなに自力他力の水際を明らかに出来るのか?

なぜかと聞かれましても、わかるものはわかるとしか言いようがありません。
それを分かるように書き続けるだけですね。