安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本当に助かる」と思うとは・無帰命安心(無力さん・雖真難信さんのコメントより)

無力さんへ
コメント有り難うございました。全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081118/1227007891#c1227097115

現在救われるかどうか、それ自体が分からない自分にとって、
「本当に」思おうとするのは、極めて命がけの行為(意業ですが)に思え、
なかなかその行為に踏み切れません。

これに関してですが、「本当に助かる」というのは、あくまで法の話なのです。阿弥陀仏の本願についての話です。
「私が助かると思えるかどうか」ではなく、「弥陀の本願は、現在ただ今救うという法だと思ってください」と言っているのです。
同じに思われるかも知れませんが、違うのです。角度を変えてみてください。

「私が助かるような者だと思えるようになる」ことを「現在救われると思ってください」と言ったのではありません。
「阿弥陀仏の本願は現在ただ今助ける本願だ」ということを「現在救われると思ってください」と言ったのです。

並べて書くと分かると思いますが、「主語」が違います。
法の話というのは、あくまでも主語は「阿弥陀仏」です。「私」ではありません。
機の話なら、主語は「私」になりますが、法の話は主語が阿弥陀仏なのです。助けると言われているのは、阿弥陀仏なのです。助ける力のあるのは、阿弥陀仏の作られた南無阿弥陀仏の名号なのです。

そういう意味で言うと

”「まずは」現在救われると思って下さい”とアドバイスを頂きましたが、
このアドバイスを受け入れるには、なかなかに心の準備が要りそうです。

心の準備ではないのです。向かうべきは法なのですから。

心に向けと言ったり、法にむけといってみたり、言うことが違うではないかと思われるかも知れませんので、改めて書きますが、あくまで法に向いた上での、私の心(機)なのです。

ここ一つ、という心が起きる前からこんなことを考えてしまう自分ですが、
大丈夫でしょうか?
(大丈夫かどうかなんて阿弥陀様に聞くべきかもしれませんが…
 いや、聞くのは自力か…)

大丈夫か、大丈夫でないか、法から言いますと、「そんなこと思ったから助けないという本願はありません」
信心決定はただ今のことなのです。

このままではダメなのは間違い無いでしょうが…、
そもそも変な方向に行ってるような気がして、
まず確認させて頂きたい心境になりました。
これは、言葉尻を捉え過ぎなだけでしょうか?
(そもそも、上記の意味、通じますでしょうか?)

「このままでは」ではなく、「現在ただ今」が問題です。
言葉尻をとらえ過ぎと言うよりは、頭がいい方なのだとお見受けします。言葉だけである程度のことが分かってしまうのです。
私は心を問題にしてきました。

向かうべきは、弥陀の本願です。
そこで問いです
問.
その本願にむかったときの、自分の心を改めてみてください。
どんな心が起きてきますでしょうか?

「こういうことをしなければ助からない」というのは思いこみであり、「こういうことだからどのみち助からない」というのは、無帰命安心と、以前のエントリーで書きました。

それについて、コメントを頂いておりますので、あわせてお答えします。
雖真難信さんよりコメントを頂きました。

無帰命安心について詳しく教えてください。

>「宿善まかせ」ときくと、どうしても「弥陀まかせ」と聞いて、
>「所詮私の力ではどうにもならん」と決めてかかっている人があります。
>そんなのを無帰命安心というのです。

と書いておられます。
「所詮私の力ではどうにもならん」=自力が廃る=弥陀まかせ=帰命ではないのでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081007/1223371095#c1227037996

この無帰命安心とは、十劫安心や法体づのりにも通じる(類似した)異安心の一つです。
語源は、御文章にあります。

「十劫正覚の初より、我等が往生を、弥陀如来の定めましましたまえることを忘れぬが、即ち信心のすがたなり」といえり。これ、さらに弥陀に帰命して、他力の信心を獲たる分はなし。(御文章2帖目11通 五重の義)

「これ、さらに弥陀に帰命して、他力の信心を獲たる分はなし」といわれている部分から、無帰命安心ともいわれます。
帰命とは、弥陀に救われることですから、現在弥陀に救われたということがない安心(信心)です。
それが十劫安心でいいますと、阿弥陀仏が本願を建てられた十劫の昔に既に私は助かってしまっているのだ。今その自覚が無くても(無帰命)いいんだという安心です。
また、法体づのりのいいかたでいいますと、「どうせ私たちのやる行いはなにをやっても救いの足しにも何にもならないのだ、阿弥陀さまはそう言う者とみぬいて本願を建てられているのだ」と、助かった体験もなく(無帰命)で安心してしまっている異安心です。

これはとても大事なところで、異安心がなぜ浄土真宗の世界ではいわれるのかというと、真面目に求めていく人ほど、どこかで陥るのが異安心なのです。
別の言い方をすると、真実信心になるまでは、何かの異安心になっているのです。
「これでいい」と思えば、それは何が理由であるにせよ、すべて異安心、安楽椅子です。何も助かったつもりだけが、異安心、安楽椅子ではありません。
「○○だから助からなくて当然」というものも、安楽椅子です。

その椅子を、信心の沙汰(この問答も沙汰になります)や聴聞で、壊していかねば、座ったままで棚ぼたで頂ける信ではないのです。

コメントでおたずねの部分ですが

「所詮私の力ではどうにもならん」=自力が廃る

ではありません。「所詮私の力ではどうにもならん」と思うのは、自力が廃ったのでも何でもありません。まだ助かっていないのですから。
上記の言葉を使うなら「私の力ではどうにもならんかった」というならまだ分かります。
「私の力ではどうにもならん」という言葉は、「だから阿弥陀仏なんとかしろ」と、阿弥陀仏にすがりながら文句を言ってる言葉です。これは法体づのりともいわれます。

自力が廃る=弥陀まかせ=帰命ではないのでしょうか。

弥陀まかせ=帰命ですが、その前の、「所詮私の力ではどうにもならん」とは繋がりません。
本来の弥陀まかせという言葉の意味でなく「とにかく弥陀にまかせればいいのだ、私の力ではどうにもならん」という意味で、弥陀まかせと言っている人を例にあげたものです。

だから「「所詮私の力ではどうにもならん」と決めてかかっている人」と書きました。蓮如上人が「さらに弥陀に帰命して、他力の信心を獲たる分はなし」と断言されている通り、他力の信心をまだ獲ていないのです。助からんと「自分で」決めているのですから。

「助かる」「助からん」と決めるのは、私ではありません。
また、機の上から言えば、信前信後助からないものには違いありません。
阿弥陀仏の目から言えば、「どうにもならんから本願を建てているのに、今さら何を悩んでいるのか」と言ったところでしょうか。

お釈迦様が、「一向専念無量寿仏」と徹していかれたのも、無常なわが身でありますから、弥陀の本願一つに向いて、現在ただ今救われる身になりなさいと言われてのことです。

「こうしなければならん」というモデルケースのようなものはありません。
あるとすれば、蓮如上人が繰り返し言われるように「もろもろの雑行を投げすてて、一心に弥陀に帰命す」るということです。