安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

言葉にならないことを言葉にするのが信心の沙汰(orimaさんのコメントより)

orimaさんよりコメントを頂きました。
前回のエントリーは、時間の都合で取り急ぎ書きましたので、続けて書かせて頂きます。

「求めずにおれない」「今救われたいと思って心から離れない」と真剣に求めておられる皆様の、言葉や行動(コメントに書いてある)を見ていると、そんな姿とほど遠い心の自分は、やっぱり何か足りないのではないか、と思います。こんな仏法に向いていない心のままで、今助かるとはどうしても思えないです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081213/1229170799#c1229740899

「求めずにおれない」とか、「今救われたいと思って心から離れない」というのは、結果的なことであって、それが目的ではありません。
「ただ今救われよう」と思った人が、結果として「求めずにおれなく」なるのです。
「求めずにおれない」と思った人が、結果として「ただ今救われよう」となるのではありません。

同様に
「ただ今救われよう」と思った人が、結果として「今救われたいと思って心から離れない」ようになるのです。
「今救われたいと思って心から離れない」と思った人が、結果として「ただ今救われよう」となるのではありません。

目的と手段は常に逆になります。それは一言で言えば人間の深い迷いのなせるわざだと思います。どれだけ聞いても、目的と手段を間違えるというのはこういうところにあらわれるのです。

形にとらわれてはならないと、いうのも、「形」(外面)というのは、その人の「心」(内面)が現れたものだからです。心が先で、形はその後に現れてくるものです。順番からいってそうなのです。
「心」が先で「形」は後なのです。
「求めずにおれない」というのも、文字になって、あるいは姿となって、第3者がみると、その心の姿は分かりませんから、どうしても、目に見えてわかる形(外面)ばかりをまねしようとします。まねという言葉を使うなら、その内面(心)こそまねをしなければなりません。

「そんな姿とほど遠い心の自分は」と書かれていますが、やはり姿が問題になっているのだと思います。姿や格好など問題ではありません。
「よき仏法者」「正しい求道者」になるのが目的ではありません。「よき仏法者」という形にとらわれてしまったら、大事な心が分からなくなってしまいます。

家のこと(掃除とか)をしていると、その作業に懸命で、今救われようということも頭にないように思います。ここ一つとなった人なら、こんな掃除をしているとき、どんな心でいるんだろうとか、そんなことが掃除中に気になってしまっていました。でも仮にその心境を聞いたとしても、格好ばかり真似をしようとするのだろうなと思いました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081208/1228730245#c1229738865

これも格好や形を問題にして、「必死な姿」になろうという心です。
「あぁなったら」というのは、「必死な姿になったら」ではありません。
「ただ今救われる身になったら」なのです。

私もorimaさんと同じ事を考えたことがありますので、よく分かります。
日常に生活をしていると、仏法に心がかかっているときはあっても少ない。仏法を聞くご縁がない日なら、朝晩の勤行のときくらいでしょうか。その朝晩の勤行といっても、朝は時間に追われ、夜は疲れて早く休みたいという心が働きます。

こんなことばかり考え、仏法のことも少しも心にかからない者が、本当に救われることなどあるのだろうかと考えました。
しかし、仏法が心にかからぬから助からぬという心は、別の言い方をすると「仏法が心にかかれば助かる」と言っているようなものなのです。
「仏法が心にかかったら助かる」ような者なのでしょうか。「真剣になれないだけ」「真剣になったら救われる」という心は、「自分は助かる者だ」という考えです。
もし「真剣になれば助かる者」ならば、十方諸仏の諸仏は見捨てられないのです。

夫れ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。(御文章2帖目8通・本師本仏)

こういう諸仏にすてられた者と聞かされているのに、「真剣になったら助かる」と、自分の姿が分からない、そういうものを「邪見憍慢の悪衆生」と親鸞聖人は言われているのです。

邪見憍慢悪衆生
信楽受持甚以難
難中之難無過斯(正信偈)

そういう邪見憍慢の悪衆生は、真実信心獲得することは甚だ以て難しい。難しい中の難しいこと、これに過ぎたる難しいことはないとまで言われています。

真剣になったかならないかで、助かるかどうかがきまるのではないのです。
「ただ今救う」という本願を疑い、その本願で約束された自分の姿が、わからず、「助かる者」と思っている。法も機も全く本願とあっていないから「願に相応」しないのです。
「願に相応」しないから、「外の雑縁さらにない」身になれないのです。

いつも言葉がまとまらず、申し訳ありません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081213/1229170799#c1229740899

と最後の書いていただきましたが、それでいいのです。
むしろ、言葉がまとまったら、その人はもう「わかっている」人なのです。
へんに「わかって」安楽椅子に座るよりも、orimaさんのように、言葉にならない自分の心を一生懸命打ち出そうとされるのは、本当にすばらしいことです。

信心の沙汰と聞くと、何かとうとうと自分の信仰を語る場と思われているのかもしれません。しかし、そんな言葉にできることばかりなら、沙汰は必要ないでしょう。
自分の中の言葉にならないもやもやしたもの、どうして自分は救われないのだろうかと思うその心を打ち出していくことこそ大事なのです。

信前でもそうなのです。信後はなおさら言葉に表すことが難しいことと分かります。
どれだけ言葉で表しても、言葉で表したものは真実信心そのものではないからです。
「数字」で「味」をあらわすようなものです。
数字というのは大変便利なもので、わかりやすいものですが、世の中で数値化できる者というのは、ほんのごく一部のことです。
同様に、言葉であらわせることは限界があります。しかし言葉でなかったら伝えられないのです。それはお互い様なので、どうぞどんどん打ち出して下さい。支離滅裂でも結構です。私はそれが少しも変だとは思いません。まとまらないのが本当です。
分かってもらえないと思われるのかもしれません。信仰のことなら分かります。同じ道を通って、同じ道を出るのですから。

同一に念仏して別の道無きが故に、遠く通ずるにそれ四海の内皆兄弟と為すなり。(教行信証)

ネットの上でも、どこでも、信心獲得を目指すひとは、同じ道を通ります。そして同じ世界から同じ弥陀の淨土に生まれるのです。orimaさんと山も山も、同じ弥陀の兄弟なんです。

わがはらからに伝えつつ
みくにの旅をともにせん(真宗宗歌)

と歌っているとおりです。
必ず弥陀は、ただ今救ってみせると誓われたとおり救って下さいます。
同じ弥陀の浄土に早く生まれる身になって下さい。

最後に質問です。

「仏法が心にかかったら助かる」ような者なのでしょうか。「真剣になれないだけ」「真剣になったら救われる」という心は、「自分は助かる者だ」という考えです。

と、書きましたが。上記の文章についてはどのように思われますか?
よろしくお願い致します。