安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「死ぬのが怖いから仏法を聞く」ということ(モグタンさんのコメントより)

モグタンさんからいただいたコメントについて、昨日のエントリーと関係することなので、続けてお答えします。maryさんのコメントについての回答にもなると思います。

私も仏法を聞きたいと思ったきっかけは死ぬことが怖かったからです。
しかし、今では求道自体の苦しさ(経済的なこと、人間関係など)から逃れたいために早く信心決定したいという気持ちがあります。
信心決定する方が大事なのだから、と自分に言い聞かせて、現在の苦しみから逃避しているようにも感じます。
現在の苦しみが深刻になる前に、早く信心決定してしまいたい、という思いです。
書いてみますと、目的がもう違うような気もするのですが・・。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090119/1232362556#c1232

昨日のエントリーにも書いたこともあり、ひろみさんからもコメントいただきました。いつも有り難うございます。
「死ぬのが怖い」というのは、仏法を聞いている人も、聞いていない人も、人間ならば等しく持っている感情です。しかし、阿弥陀仏の本願はその「死にたくない感情」をどうにかするという本願ではありません。
蓮如上人が御文章に言われているとおりで、死にたくない感情というのは弥陀に救われても無くなるものでは無いからです。

然れども、強ちに病患をよろこぶ心更に以て起らず、浅ましき身なり、慚ずべし、悲しむべきもの歟。(御文章4帖目13通 秋去り春去り)

病気になって、死んで浄土にいくのが近づいたと喜ぶ心はさらに起きません。
死にたくないという感情(煩悩)は少しも変わらないのです。

「現実の苦しみが深刻になる前に、早く信心決定してしまいたい」
というのも、「信心決定すれば、死ぬことが怖くなくなる、あるいは、現在の苦しみが無くなる、あるいは深刻でなくなる」ということだと思います。

現在ただ今弥陀に救われることは、目的であって、この世の苦しみを逃れる手段ではありません。「現在そうは思えない」という方も多いかと思います。
煩悩具足の凡夫に、弥陀の浄土に生まれたいという心が起きると言うことは、本当にありがたいことであり、弥陀の願力以外のなにものでもありません。

「現在ただ今弥陀の救いにあうこと」が目的だということをよくよく知って、早く真実信心獲得の身になっていただきたいとおもいます。

ご不明な点があれば、コメント、メールでもおたずねください。