安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自力の心と「こころ」の違い(kaiinさんのコメントより)

kaiinさんよりコメントを頂きました。
全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081111/1226397978#c1226494562

お尋ねの件について、回答いたします。

雑行雑修自力のこころを捨てよとはどういう行為(意業での)なのでしょうか。
手に持っているものならば投げ捨てるということになるのでしょうが、こころで捨てるというと思わないようにするという事なのか、あるいは自分の心を真実の心にしようとすることなのか、具体的に何かをお教え頂けないでしょうか。(kaiinさんのコメント

雑行雑修自力の心を捨てよというのは、「思わないようにする」ということではありません。また、「自分の心を真実の心にしようとする」ことでもありません。

思わないようにして、相済みなら、それは「感情」です。または、「思考」です。
雑行雑修自力の心は、「感情」ではありません。「思考」でもありません。

ですから、雑行雑修自力の心をすてよとは、「何も思わない」ことでも、「考えない」ことでもないのです。

「こころ」という言葉に、どうしても惑わされてしまいがちですが、確かに形のないものであり、体の「行為」や、口で「話す言葉」でもないのです。

私たちが日頃「こころ」と聞いて、想像するものは、「感情」や「思考」または、欲や怒りや愚痴といった煩悩です。そういうものが、苦悩の根元(自力の心)とイコールだと結びつけるので、「計らわないようにしよう」「疑わないようにしよう」「喜ぼう」と、感情信仰に陥りやすいのです。あるいは「わかった(思考)安心」に陥りやすいのです。

敢えて言うなら、雑行雑修自力の心というのは、阿弥陀仏と私の「関係性」についていわれているものなのです。

蓮如上人のお歌にあるといわれている
「阿弥陀にはへだつる心はなけれども 蓋ある水に月は宿らじ」
という歌があります。
これは、阿弥陀仏のお慈悲は平等なのに、どうして救われない者が居るのかという、一休の問い(歌で出したもの)に対して蓮如上人が歌で返されたものです。

ここで天上の月にたとえられたのは、阿弥陀仏、水に譬えられたのは、私たちの「こころ」であり、「蓋」といわれたのが、「雑行雑修自力の心」です。

では、この蓋というのは、水でしょうか?
違います。水と月の間にあり、月が水に映るのを隔てているものです。

もちろんたとえですから、これが100%間違いないということではありません。譬えは一部分しか表さないものです。

しかし、雑行雑修自力の心という蓋が、あるときもないときも、水そのものはなにも変わりません。水面に月が宿ったそのときに、水の味や、成分が変わるのでしょうか?蓋がなくなっただけです。月が映っただけです。

だけといっても、その蓋がある限りは絶対に水に月は宿りません。
ただ蓋だけが邪魔なのです。蓋さえなければ月は水面に宿るのです。

ここで蓋に譬えられたものが、雑行雑修自力の心であって、私たちが普段感じる「こころ」とはまた別物だということを分かっていただきたいと思います。阿弥陀仏と私を隔てるもの、隔たった関係性を、自力の心と言われます。

ですから、上の心とか下の心というように表現されるのも、私たちが日常知覚している、「喜び」「怒り」「悲しみ」「思考」といったものとは違うものだからです。

仏法は心を重く見られるのも、心に目を向けよと言われるのも、いわば、分かりやすい感情、思考のそのまた下に存在するものが、雑行雑修自力の心だからです。

「そんなものわかるものではない」と、安楽椅子に腰掛けては大変です。
「それは、その人が知らないだけ」です、「知らない」から「ない」のではありません。「分からない」のなら、どうして御文章にあれほど、「雑行雑修自力の心をふり捨てよ」と繰り返し繰り返し書かれるのでしょうか。

下の心と聞きますと、何か座禅のようなものを想像して、あるいは定善に励めば見えてくると思われるかも知れませんが、そういうのんきなものではないのです。

助ける弥陀は命がけです。その阿弥陀仏の真実の救いに、真剣に、現在ただ今救われようと、求める人にこそ見えてくるものであって、「心静めれば見えてくる」といったものではありません。何か見えても、それは自分の心で自分を見ているに過ぎず、自力で自力を見ているに過ぎません。

法(他力)に真剣にむかってこそ、自力の心も見えてくるのです。
仏教は法鏡なりといわれますが、法とはまさに、私たちの真実の姿を写す鏡なのです。
弥陀の本願(法)に向かってはじめて、そこに映れる機も知らされます。
そこで知らされるのは、雑行雑修自力の心であり、無始から迷わせ続けた自力の迷情であり、これ一つで流転を重ねる疑情なのです。

それが見えてからが求道です。「せずにおれない」という言葉は、ここで初めて形容詞でもなく「本気」の「本心」から思えるようになるのです。

この自力の心を何とかせずにおれなくなります。
本当の後悔とは、「これさえなんとかなれば」となって無常を迎えるときに出てくる言葉です。

速にこの心を改悔懺悔して、当流真実の信心に住して、今度の報土往生を決定せずは、誠に宝の山に入りて、手をむなしくして帰らんに異ならんものか。(御文章3帖目8通 不廻向)

まさに宝の山を目の前にして、手を空しくして帰る気持ちは、後悔以外にありません。
無常に驚くとは、こういう心境なのです。
宝の山が目の前だと分かっても、その宝を手に入れるのを邪魔するものがある。時間は刻々と迫っている。いつタイムオーバーになるかわからない。
そうなったときに、とても焦ります。驚きます。なんとか早く、早くとなってきます。

これが求道における「無常に驚きが立つ」なのです。

そして「捨てよ」とは、その弥陀の救いを妨げているもの(雑行雑修自力の心)を捨てよということです。
自力の心が見えれば、「捨てよ」と言われなくても捨てようとします。
どういう行為でしょうかという質問も、そのときは出なくなると思います。

kaiinさんも早く弥陀の救いにあって頂きたいと思います。必ず弥陀の救いにあう時があります。
ご不明な点、また思われていることがあれば、いくらでも打ち出してください。